どうしてか、眼鏡の向こうにある彼の二つの目を見るのが怖いのです。流れていく雲に話しかけるよりも、駐車場にいる毛むくじゃらの熱い命に触れるよりも、ずっと、怖いのです。

 信号機が陽炎に揺れている幻覚を見ました。その揺れる視界の片隅には、もう一人の、私の知らない私と、手塚くんが映っているのです。ああ、あれはきっと私の願望。ぼんやりとした、流れる雲と同じくらいぼんやりとした、私の願望。






4、雲の信号






 授業中にする居眠りは春に限る。冬休みにした入院生活がいつまでも抜けなくて、つい昼寝と称してうとうととしてしまっているうちに、鐘が鳴る。音に反応して、遠くの雀が飛んでいく。なんと清々しいことか。

 幸せなうたた寝は、ある一つの夢を見せた。春の陽炎に揺れる通学路で、一人穏やかにバスを待つ夢だ。道路の向こうに見える信号機の下には手塚くんと私がいる。いや、あれはきっと私ではない私だ。だって私は確かにバスを待っているのだから。

 私ではない私は、気安く彼の左腕に触れて何かを笑顔で話し、その腕に自分のを絡めて遠くへ行く。バスで行ける範囲ではなく、もっと遠くに行ってしまう。羨ましいような、切ないような。笑顔の私を、私は見ていた。


「みょうじ、ちょっといいか」


 休み時間にする、夢のぼんやりとした回想から手塚くんの低い声が私を現実に引き戻した。驚いて肩をびくつかせたせいで、彼は苦笑していた。


「そんなに驚かなくてもいい。たいしたことじゃない、雑談だ」
「雑談?」
「ああ」


 手塚くんはちょうど不在だった前の席に座る。が、正面は向かない。見えているのは横顔だ。

 差し込む日光がその繊細な睫毛を宿り木にするように止まっている。赤みのない、アッシュベージュの髪色は綺麗で、開いた窓から注ぐ風に揺れている。夢の中で見た彼はもう少し大人だったが、今、目の前にいる彼は少年のあどけなさが残る印象を受けた。

 いつもは見上げなければならない身長差のせいで、顔をしっかり見たことがなかった。けれど、見れば見るほど女の子に人気があることは痛いほどよくわかる。綺麗な顔立ちだ。

 私の中の炎は薪をくべるようにごうごうと燃えている。上手く話せそうになくてモヤモヤする。


「みょうじは普段の休みの日は何をしているんだ」
「え、っと……いろいろ」
「そうか」
「うん……」
「宮沢賢治が好きらしいな」
「うん……」
「俺も先日読んだばかりだ」
「そっか……」


 息が詰まった。舌は今にもひからびて割れそうなほどからからで、貼り付いた咽喉からは絞り出したようなかすれ声しか出ない。どうしてこんなことになるんだろう。病院や、バスで話したときはこんな風じゃなかったのに。血がにじみそうなほど唇を噛んで、当たり障りのない返事をしているうちに申し訳なくなってきた。そのうち女の子の視線が私に突き刺さっていることに気がついて、余計に穴があったら入りたいほど恥ずかしいことをしている気分になる。胸が苦しい。いてもたってもいられず、思わず立ち上がった。


「ごめん。私、ちょっと体調が」
「大丈夫か」


 ついて支えようとしてくれる彼の手を払う。乾いた音が鳴った。


「あっ、ごめん。でも、本当に平気だから」


 いつのまにか、自分の呼吸が乱れていることに気がついた。目を丸くした彼が、回りの女の子の視線が、一気に私に襲いかかって気が狂いそうになるほど頭が痛くなった。

 駆け出した、その一歩一歩がどれも頭に響いた。何かに追われているわけでもないのに、何かから必死に逃げようとしていた。熱がある。きっと彼と話すたびに熱が上がる。そんな根拠のない、馬鹿みたいなジンクスを信じている自分が本気で嫌で泣きそうになった。夢の中ではあんなに笑顔を見せて彼と笑っていたのに、それが今を生きてる自分にはできない。

 教室を出て、すぐ横の階段を駆け下りていく。踊り場を曲がるとき、あやうく前方から来た人にぶつかりそうになった。


「わっ、びっくりした」
「不二!あ、ごめん!」
「追いかけっこ? ……って、そんなわけないよね」


 ぶつかりそうになった相手が知った人でよかった。不二とは二年間とも同じクラスで、今年初めてクラスが別になった。わりと話すことが多かった。友人と形容しても、彼なら許してくれるだろう。

 急ブレーキをかけたときに上靴がリノリウムの床と擦れて、高い音で鳴いた。少し走っただけなのに、私は肩で息を繰り返さずにはいられなかった。


「大丈夫? 保健室ついて行こうか?」
「ううん、いい」
「だめ。そうやって、君はすぐ無理するから」


 不二に手を引かれて保健室へ向かった。彼は何でも知っている。私が病院に通っていることも、心臓があんまり強くないことも、なのに私自身がそれをすぐに忘れて思い切り走ったり、遊んだりしてしまうことも。

 けれど、私は不二に引かれた手の温かさに一つのことを察した。それは、私の熱が不二となら穏やかに冷めていくのに、手塚くんとは話をするだけで上昇するということだ。


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