生涯、熱を出した回数のことを覚えていますか。一年に一度か。それとも、もっと多いか、少ないか。発熱のたびに苦しい思いをしているはずなのに、いざ乗り越えてみると意外と思い出せない人は多いのかもしれません。
けれど、もし死ぬ前にこの質問をされるとするならば、私ははっきりとこう答えると思います。「私は生涯、一度きりしか熱を出していない」と。
15、星めぐりの歌
季節は巡って年末。ドイツに旅立つ日の早朝、今シーズンはじめての雪が降った。空を見上げていた私の額に粉雪が落ちて、熱がそれを淡く解かしていく。鼻の頭が寒い。まばたきをするたびに、睫毛まで凍ってしまいそうだ。
「何しているんだ」
背後で声がした。少しよろめきながら振り返れば、そこにはマフラーに顔を埋めている手塚くんがいる。薄いアイボリーのコートのポケットに手を入れて、私に航空券を差し出した。自分の分は持っていろ、という意味らしい。
「雪、見てた」
「雪か。今日は寒いから、体を壊さないように」
「大丈夫。わりと気分はいいから」
首に何重にも巻いていたえんじ色のマフラーを整えられる。吐いた息が白くなって、消える前に私の顔にもかかった。そして、そのまま近づけられる唇が合図になる。しょうがないなあ。ぐっと背伸びをして、彼の左腕を掴んで身体を支えながらキスをした。唇は火傷しそうなほど熱くて、溶けてしまいそうだ。
手塚くんも私と一緒に、冬休みを利用してドイツに行くことにしたそうだ。なんでも腕を治しにいった病院と同じらしく、よく知っている土地だから、と。でも、本当は私のことを心配してついてきてくれるんだってわかっている。もう一緒にいても大丈夫だって、わかった途端に過保護なんだから。
だけど、きっと。私の髪をもてあそぶ指も、慈しむような目も、熱がある私よりも体温の高い唇も、もう避けなくてもいいのだと知ったとき。私の方こそ、この人と結ばれる運命にあるのではないかと確信したのだ。
「元気そうで安心した」
「そう?」
「顔が赤いのは、どうやら熱のせいではないみたいだ」
「……もう」
荷物を私の手から奪って黙って歩き始める。私も彼の背を追いかけるように歩き出す。バスで通い慣れた通学路を逆走していく道だった。
――おーいっ!!
早朝で誰もいないはずなのに、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた。その聞き馴染んだ声に驚いて振り返ると、向こうにある青学行きのバス停で、学生服の私が立っていた。
粉雪が桜吹雪に一瞬で変わってしまう。春の陽炎に揺れるバス停で、確かに私がこちらに向けて手を振っている。いや、あれはきっと私ではない私だ。だって私は今、たしかに交差点の近くの信号の下で手塚くんと一緒にいるのだから。
私ではない私はずっと手を降り続けている。羨ましいような、切ないような。笑顔の私を、私は見ていた。あれは、いつかの夢の私だ。まだ手塚くんと、距離が詰められなかったときに見た夢の私だ。
あなたは何もうらやましがらなくていいよ。この恋のことも、この病熱のことも。
ついてこない私に気がついて、手塚くんが声をかける。
「どうした、おいて行くぞ」
「わっ、待って!」
私は少し駆けていって、彼の左腕に触れた。そして、手塚くんにはけして聞こえないように、バス停で手を振る私に向けて呟いた。
「あなたは生涯、一度きりしか熱を出さない」
--fin--
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