はじめて熱が出た日から半年以上が経過しました。幸せすぎたあれからの出来事がすべて夢で、今が本当の現実なんじゃないかと思ってしまいます。
 あの頃は、こんなふうに自分の命が尽きてしまう可能性を考えたことはありませんでした。身を焦がすような熱はいまだ燃えていますが、それよりも身を焼くのは、いまだに、彼への会えなくなった想いです。






14、永訣の朝






 別れを切り出した日以来、彼が私の病室を訪れる頻度はとても減ってしまった。たとえ病室に来ても、頭を撫でてくれることもなく、指一本触れてくれることもない。けれど、それでいいと思う。私の考えをきちんと理解してくれて、ゆっくりとではあるが別れを受け止めてくれようとしている手塚くんには、むしろ感謝しなくてはならない。

 彼がいない間は、秋の夕暮れに浮かぶカラスを見ながら、今までのことを回想して過ごす日が多くなった。一緒にいた時間は少ないながらも濃くて、思い出す彼のすべては輝いて想起されていく。きっとこういう人のことを、恋こがれた相手だと言うのだろう。――その焦がれるような恋のせいで自分が死ぬならこれ以上の幸せはなく、本望なのだ。だから、触れて欲しいなんて思っては、いけない。


「いつもありがとう」


 今日は手塚くんが来て、花瓶の水を換えてくれた。他愛もない話をするだけだが、それが死にゆく私にとってどれほど貴重なものか感じなくてはならない。


「礼を言われるようなことは……ない」
「うん。でも、ありがとう」
「……」


 花にどんな顔を向けているのかはこちらからは見えないけれど、泣いていなければいいなと思った。


「みょうじさん、みょうじなまえさん。ちょっといいですか」


 無言のまま二人で病室にいると、担当医さんが入ってきた。手元にカルテや書類、脳の模型などいろんなものを抱えてくる。ちょっといいかな、と言うので、私と彼は気まずい無言から解放されたと安堵の一息をついた。


「この前の検査の結果が出ました。ぜひ、二人で聞いてください」


 どうせ、原因不明とでも言うんだろう。原因ならこの恋にあると言うのに。

 先週行われた検査はいつも以上に苦痛で長かった。でも、いつもそうなのだ。どんなに痛い想いをしたって原因はわからないと言われる。手塚くんはそんなこと知らず、初めての検査結果に困惑した表情を見せていた。私は内心、原因である恋が彼の眼前で暴かれるのではないかと不安になる。


 担当医さんは脳の模型を持ち出して細胞がどうとか神経の伝達組織が千切れてどうのとか、何やら難しい説明してくれた。しかし、熱のある私の頭では難しく、むやみに右から左へと受け流す。そして、話が終わると呼吸を整えて先生は言った。


「こうしたことから、日本では症例が極めて稀の、熱病が原因だということがわかりました」


 二人で息を飲んで顔を見合わせた。目が合ったのは、別れを切り出した日以来、初めてのことだった。


「一刻も早く病院を移った方がいいと思い、その権威がいる病院への紹介状を……」
「あの、先生。変なこと聞いてもいいですか」


 手塚くんが驚いたように、食い気味に口を挟む。


「この病気は、彼女の……恋のせいじゃないんですね」


 その質問は、私の聞きたかったことを代弁してくれているような気がした。この熱が、手塚くんへの恋ではない。そのことを確信したい気持ちで、私たちは満ちていたのだ。

 先生は目を細めて、しばらく私と彼の顔を見比べている。それから、ふっと顔の筋肉を緩ませて笑ってくれた。


「けして恋のせいじゃない。病気を治せば、きちんと恋愛もできるようになるよ」


 手が小刻みに震えはじめていた。嘘じゃなくて、本当に、手塚くんのせいじゃないの。もしそうなら嬉しくて、また彼に触れるのを許されたような気分になって、震えが止められなかった。手塚くんも同じだったようで、別れを告げてから初めて私に触れてくれた。分厚くて暖かな手は、同様に小刻みに震えていた。

 この病気は日本では稀で、症例はヨーロッパに多いという。最も有名な権威がいるのはドイツだと知り、その人のいる病院へ移る手はずを少しずつ整えようという話になった。もちろん、このままでは私の体力が長旅に持ちこたえられない。ということで、体力の回復を最優先事項にして年内中に病院を移ろうという話になった。

 話が終わった後、再び二人になった病室は沈黙になる。それがおかしくて、つい笑ってしまった。嬉しかった。手がつながれたままになっていたことが、とても嬉しかった。


「…触れたくてたまらなかった」


 照れたようにポツリと呟く手塚くんの指を絡めて、私たちは笑う。


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