これからどうすればいいかなんて、本当にわかりませんでした。なにしろ、私はまだ彼にこの熱病のことすら伝えていなかったのです。





10、シグナルとシグナレス






 私と彼との間にある出来物は、いつのまにか、ひどい炎症を起こして腫れている。

 
 いつもそういうことになる。特に人間関係において、私は人を引き寄せておいてから突き放すのが得意みたいだった。だから友達は狭く浅い関係しか保てないし、男女関係なんて初めから無理だとわかっていた。本当に自分は大馬鹿だと、自嘲の笑みが出る。

 しばらく入院と言われたため、検査以外は病室でじっと外を眺めていることが多くなった。本も手に取らない。あれだけ読んでいた宮沢賢治の詩集も、字を目で追うのが億劫になっている。それよりも、一刻一刻と私を置いて過ぎて行く真夏の中に、みんなの背中を見いだして、病室でそれらを見送っていたい気分だった。

 私が告白を断ってから手塚くんは病室に来ていない。けれど、不二が一度見舞いに来てくれて、手塚は療養したほうがいい、と気になることをつぶやいていた。馬鹿だよね、みんな左腕のこと知ってるのに隠しちゃって、僕らは知らないふりをしているだけなのに、あいつは抱え込みすぎなんだよ、なんでも。――本当に私もそう思う。

 けだるい倦怠感は微熱からくるのではないか。という病院の見解には全面的にそうだと認める以外どうしようもなかったが、じゃあその熱はどこから出ているのかという問題には何も解決策はないらしい。しかし、実際に手塚くんに会わなくなった入院生活では三十八度を超える高熱は出なくなっているのだから、相当彼に会うのがストレスだったとさえ思えてしまう。あるいはアレルギーか。はたまた別の病気か、なんなのか。どうすればこの重苦しい病室から出られるのかわからず、次第に、このまま彼に会わないで死んでしまったほうがマシだ、とさえ思えて気が滅入る。

 けれど、会わない間に一つ確信が持てた。私は確実に彼のことが好きなのだ。なぜなら思い返すこと、夢に見ること、視界に入れるもの、そのすべての中に彼がちらつく。


 ずっと原因不明のままそうして二学期も終えて、夏休みに入ったある日。もっと大きな窓から外が見たくてエレベーターホールにいた。後ろ手を組んで近くの窓から外を見ると、燃えるような夕日が傾いて宙に浮かんでいる雲を赤く染めている。その雲に自分の想いを溶け合わせて、彼に届くように強く念じた。


 ――お願いです、神様。私はもう二度と手塚くんと会えなくたっていいのです。この恋が叶わなくてもいい。死んでもいい。けれどもせめて、あの人の怪我を治してください。そして、あの人が一生、幸福でありますように。――


 気付けば私は彼のことばかり考えて、勝手に熱を上げていた。


「本当にこの病は恋かもしれないなあ……」


 そう独り言を言って笑ったとき、後ろで組んでいた指に、私よりもずっと暖かな熱が触れた。振り返って顔を見上げる隙もなく、後ろから抱き締められる。この人が誰なのかなど考えずともわかりきっていた。

 相変わらずぶっきらぼうだ。愛想もないし、笑顔もないし、言葉数もない。けれど、どこかその隙間に優しい感情があるように感じるから不思議で、そこが彼のいいところでもあるということを私は知っている。力のこもった左腕が本当に熱い。


「腕を治しに、九州に行くことにした」


 久しぶりに聞く第一声はそれだった。


「だから、その前に」
「……」
「どうか俺を好きだと言ってくれ」


 懇願するような声が抱き締められた身体伝いに聞こえた。窓の反射を利用して彼の表情を見る。切ない顔で、まるで永遠の別れをするような顔をしていた。

 『シグナルとシグナレス』の話の中に、想いを告げるシーンがある。さあ僕を愛するって言ってください。今の彼は、まさにそれだ。そして私も同じようにその物語をなぞる。


「私なんて、つまらないよ」
「つまらないところさえ尊い」
「手塚くんとは違うんだよ」
「違うから好きだ」


 そうしてシグナルとシグナレスごっこを繰り返していると、どうしてかぼろぼろと涙がこぼれた。今までこんなつまらない私を好きだと言ってくれたのは彼が初めてだった。


「私、手塚くんといると苦しくなる。熱が出て、頭が割れそうになって。あなたといると自分がおかしくなる」
「……」
「だけど、本当はもっと一緒にいたいよ。近付きたいよ」


 嗚咽まじりにそう言うと、身体を強く引かれて向き合う体勢になる。そして少し彼がかがみ、唇の熱を黙って奪った。


「……あなたが好きです」


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