8、
昼休み、旧校舎の地理学資料室で、俺はもうじき犯罪に手を染める。
自業自得だ。なまえのことがずっと好きだったって頭のどこかにはあったはずなのに、アイツの苦しみを見殺しにしていた俺への罰なんだ。だから最後くらい、言う通りにアイツを楽にしてあげるくらいしかこの罪を消せない。いや、もしかしたらそれでも足りないかもしれない。
斜め前の席のアイツは、もうじき自分が死ぬと分かっていて最後まで普段通りだった。きっと誰かに何かを悟らせまいとして普段通りにしていなければならないと思っているに違いない。なまえの行動は全部、法則通りだ。でも、それが逆に幼馴染みだった俺にも何も悟らせない原因になっていた。
なまえが昼休みに席を立ったのを見て、少し時間をずらした後に俺も立ち上がった。向かう先は決まっている。正直自分が今から行うことが正気の沙汰じゃないため足はガクガク震えていたが、このままアイツを一人にさせることも出来そうにない。
誰もいない旧校舎に入ってからは念入りに周りを注意する。「目撃者があってはならない」と、なまえは繰り返しそう言っていた。自殺に見せかけるとは言え、怪しい行動をして調べられたら他殺だということが簡単に分かってしまいかねない。そういうときのためにも、俺は人の動きに注意深くなる。幸い周りには誰もいなくて、今のうちとばかりに足早に資料室へ向かった。
資料室ある階に着くと、なまえは珍しく部屋の前で待っていた。走り寄る俺には何も言わずに、ただ愛想もなく手袋を渡す。指紋を残さないためだろうと俺は理解して、無言のままそれを手にはめた。
資料室の奥のあのフックにはすでにロープが掛けられていた。俺は生唾を飲み込み、なまえの方を見る。どこで手に入れたかは知らないが、二本の太い綱が螺旋に絡み合っているロープの形状はなまえの首の痕と同じものなんだろう。そのしっかりとしたロープを俺は受け取って、なまえの肩にかけてあげた。
なにか特別な儀式を行うように、ひとつひとつの動作を丁寧に時間をかけてこなした。それまで俺達はしばらく無言のままだったが、計画犯で被害者役でもあるなまえが口を開く。
「昨日は怒鳴ったりしてごめんね、赤也」
久しぶりになまえの口から俺の名前を聞いた俺は、返事も出来ずに黙ったままなまえの首の痕を見ていた。
なまえは急に昔話を始めた。俺と一緒にどこに行ったとか、何を食べたかとか、アイツは全部覚えていてそれを楽しそうに話している。俺よりも覚えてるんじゃないかって思うくらい出てくる大量の話を聞いて、俺は一瞬なまえが死ぬのを惜しんでいるんだと思った。だが、なまえの瞳はだんだん虚ろになり生気を失っていく。俺はその目を見て、この計画から逃れようがないことを悟った。
「でも、どこかでそれが壊れちゃったから今こうしてるんだね」
「なまえ……」
「いや、もうどこからおかしくなったかは分かってるの。けど、もうそこまで巻き戻す力もないほど疲れちゃった。だから、自分で死ぬことも出来ない私を、殺して欲しい」
死んだようななまえの目と視線が合った。おかしくなったのは、やっぱりなまえの母親が再婚してすぐ亡くなってからなまえが苦しみを誰にも分け与えなかったからだと思う。俺がそのとき少しでも気付いてやれれば、何かが今とは違ってたはずだった。
「背後から痕に気をつけて締めろ」と言われていたこともどうでもよくなって、俺はなまえの肩にかけていたロープを前でクロスさせた。なまえは安らかな顔を浮かべていて、コイツ自身もそうされることを望んでいるように見える。
これを締めれば、なまえはこの世界の嫌なことからすべて解放されるんだ。そう思う俺の手は、反してぶるぶると震えて思うように動かない。
――やっぱり殺したくなんてねぇよ。取り戻したいよ。あのときのなまえの笑顔は俺にとって何物にも代え難かったんだ。嘘じゃない。やっと自分の気持ちもはっきりとわかったのに、こんな形で好きな子の人生に幕を閉じるのは、嫌だ。
気がつけば俺はロープから手を離していた。そして、その紐を床に散らすように落として、窒息死させる勢いでなまえを押し倒すように無理矢理キスした。なまえはバランスを崩し、後ろの資材に俺達に倒れかかってくる。物音を立てるのもおかまいなく、冗談でもなく、本当にこのまま俺達が一緒に窒息死すればいいと思った。
はっきりと開かれた目で、俺はなまえの顔を見ていた。苦しそうに涙を浮かべて喘ぐなまえがどうしようもなく愛しくて、もっと味わっていたいと思ってしまう。俺はなまえの歯列をなぞって舌を入れるともっと苦しくなるような深いキスを続けた。もう昔には戻れない。未来もいらない。ただ、今はなまえとこうしていたい。そのうち酸素がなくなって、二人で死んだらいい。
差し込んだ舌が強烈に噛まれたのはそう思ったすぐ後だった。俺はたちまちひるみ、なまえの反撃に唇を離してしまう。なまえはその一瞬を狙って、力の限り俺を押し返した。
「……いってぇ」
口元を腕で拭けばどうやら反動で唇の端も切ったらしく血が出ていた。口内にも鉄の味が広がっており、一気に俺を不快にさせる。一方なまえはというと、肩で息を必死にしながら俺を軽蔑するように睨んでいた。
「赤也、冗談やめてよ……!」
ケホケホと咳をしているなまえを、俺も精一杯睨みつけた。何が冗談なんだよ?
「俺はお前をここまでにしたお前の父さんを許せねえ! それで、そんな奴をかばって死を選ぶお前も許せねえよ!」
大声で叫び散らすと途端に目頭が熱くなってきた。また充血してんだろうなって思って、どうにか自分を自制するために頭を抱える。ここで見境がなくなるわけにはいかない。今の俺が自制出来なくなったら、コイツに何するかわかんねえ。
なまえはふらふらと立ち上がった。そして、立て膝をついている俺を思い切り見下し始める。よく見りゃ、アツキの目も涙のせいで真っ赤になっていた。
「赤也になんか、頼まなければよかった。全部ぶちこわしよ」
「ヘッ……そりゃ、笑えるな」
俺が吐き捨てるように言うと、なまえは昨日と同様にぼろぼろと泣き始め強く両目をこすった。
「私が赤也やみんなを避け始めたのは、ある日突然被害者にも加害者にもなっていいようにだった。そうすれば私のことを上手く証言出来る人がいなくなるから。人を拒むことが私の完全犯罪の布石だったのに」
「……どういう意味だよ」
「お父さんに虐待で殺される被害者になるか、逆に私が加害者になるかってことよ」
「加害者?」
「今まで赤也と一緒に考えていた完全犯罪は、私がお父さんを殺すためにずっと十何年間考えていた計画よ!自殺に見せかけて殺す、私の完全犯罪……!」
涙のスピードに目を拭う動作が追いついていないようで、床には昨日より大量に涙の証拠が堪っていく。なまえは完璧すぎた犯行計画を俺にすべて自白し始めた。友達を作らなかったのも、俺と話さなくなったのも、あの大量の本も、どこで手に入れたか分からないロープも、全部こいつの計画だったんだ。
「あの日赤也に会ってしまう前に、私は死んでおけばよかった」
なまえはそれだけ言うと昨日と同様俺を置いて逃げるように資料室から飛び出した。
俺はしばらくアイツの壮大な計画に呆然としていた。ずっと小さいときから、アイツは計画のために悩みを抱えていたんだ。馬鹿だ、俺。全然気付かずに、結局叶える前に自分から全部ぶちこわしにしたんだ。
よろよろと起き上がり、さっき俺達に倒れ掛って来た資料を蹴り飛ばす。いらだちは全然晴れない。もう自分でどうすればいいか分からなくて、頭が沸騰しそうなほど考えを巡らせていた。正直イカれてる。どうしようもないのに戻りたい過去のことを考え、俺は歩道橋でなまえに会ったあの日のことを思い出していた。
あのとき、俺が歩道橋を選んでいなければアイツは一人で死んでるか、自分の父さんを殺しているかだったんだ。こんな気持ちになるなら、なまえが言うようにあのまま放っておけばよかったんじゃねぇかよ。こんな気持ち、もう死ねばいい。
――いや、ちょっと待てよ……。アイツはさっき「あのとき死んでおけばよかった」と確かに口にした。あのときって言うのは、俺がなまえの自殺を止めたあの歩道橋でのことだ。車を虚ろに見て、今にも飛び降りそうだった。
でも、よく考えればどうしてなまえはあの歩道橋を選んだんだ? 自分の死ぬ場所なんてどこでもよかったはずなのに。
俺はその理由を自惚れに近い形で理解して、ようやくなまえを追いかけ始めた。
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