3、


 十二月になって、精市はもっと設備の整った金井総合病院に転移することになった。精市の運動神経を蝕んでいる病魔はいくら検査してもその正体を現さない。免疫系の病気だということはわかっているが、症状の前例がなく、原因不明の病気としてお医者さんは手をあぐねているようだ。
 それはなにも医者だけの話ではない。精市が傍に居ない父さんと母さんは、毎日お葬式のように暗かった。いくら待っても回復しない息子のことを想って夜な夜な泣いている母さん。そして、彼女の背中を無言で擦ることしかできない父さん。私の目から見てその様子は、とても気持ちのいいものではなかった。目の前で繰り広げられている家族ドラマごっこに正直嫌気がさしていたのだ。

 私はあの日以来、精市に会ってない。会わない期間が、私の記憶に残る精市の言動を忘却してくれるだろうと思ったからだ。
 なのに、あの日のことを気にした両親がまるで私のことを腫れ物のように扱い始めた。わざとらしく優しい言葉を並べて、私の機嫌取りのようなことを行う。それは、彼らが私を愛しているからなんかじゃない。すべては精市の言動をフォローするためだけで、「精市は病気だから仕方ない」と私に納得させようとしているに過ぎないのだろう。
 私は両親と話すことを辞めた。彼らはただの、同じ家に暮らしている赤の他人だと思うことにした。話しても意味がない。

 私は箱庭の中に閉じ込められた人間なのだ。生まれたときから精市に対するコンプレックスで、他者とのコミュニケーションを取る能力が破綻した。そして、ついに家族と話すこともなくなり、私は一人だけの世界にいる。生きている者は誰も居ない、真っ白な世界。現実はそのパラレルワールドだと思い込んだ。私を傷つけるものが居れば、それは『バーチャルな存在』なのだ。だから精市も、両親も、学校も、すべて私と生きる世界が違うのだ。
 ――そうして、妄想とリアルを溶け合わせていくことにした。そのうち、ずっと一人の世界で居ることを切望するようになった。現実は私にとって辛く、時折息も出来なくなってしまう。どうすれば嫌な人達から逃げられるのだろうと思ったとき、それはやはり私が死を選択するしかないと思う。

 部屋に置いてある鏡の前に立って、私は両手で自分自身の首を軽く締めてみた。心地いいくらいの圧迫感を感じ、こうして簡単に息は止まっていく。
 私は鏡の中の自分を見つめた。そのとき、私の顔はふと精市の顔と重なった気がした。似ても似つかない私の完璧な双子の兄。そんな彼と私の顔が重なるわけがない。私に絶望を与えた人間と重なるわけがないのに。


「精市も死にたいのかな」


 私はその意味を深く考えて、一人だけの部屋の中で静かに泣いた。







 以前は学校で精市の話題といえば突然生まれた新星のように注目の的だったが、その言葉通り今ではかなり落ち着きを取り戻している。興味が失せたというよりも、みんなきっと精市のことばかりに構っていられなくなったのだろう。そう推測して「私には関係ないことだ」と思いつつ、反面それを寂しいと思っている自分も居た。

 精市が入院してからは、帰宅が遅くなっても母さんにうるさく言われなくなった。私はそれをいいことに、猫と遊ぶ時間を長く裂いたり、毎日どこかへ寄り道をすることにしたりしている。別に猫と親交を深めたいわけではないし、一緒に寄り道をしてくれるような友人もいない。だが、あの家にあまりいたくないのだ。私を苦しめるだけのあの家が、私は大嫌いだった。
 この日もいつも通り遅くに帰ろうと思っていた。学校の図書館でお気に入りの本を閉館までゆっくり読んでから、駐車場の猫としばらく遊んであげよう。立ち寄ったスーパーでツナ缶を買って、私は目やにのひどい猫の顔を思い出していた。

 ここ最近の猫は毎日のように構うせいで私に対する警戒心を失くしたらしく、駐車場に着くと自ら近付いてくるまでになっていた。頭を撫でてやると甘えるような声まで聞こえる。人間に懐く術をちゃんと知っている子だと思った。昔、誰かに飼われていたのかもしれない。

 今日は先に遊んでくれた人が居たようで、お米と鰹節なんかが入ったお椀が置かれていた。昨日まではなかったので、私のような誰かが持ってきたのだろう。
 私はお椀に買ったばかりのツナ缶を混ぜてやろうと思った。だが、まったく餌に手を付けていないことに気がついて変だなと思った。餌が腐っているわけではないと思うが、まったく食べた形跡がない。具合でも悪いのかと思ったが私に飛びつこうとする元気はある。
 注意深くお椀の中に目を凝らしてみた。すると、鰹節に紛れて煙草の吸い殻や灰がたくさん混ざっていることに気がつく。
 その灰を見ていると、不思議な感情が沸いた。傍に居る猫を可哀想と思う以外の、恐ろしい感情を抱いている自分に気がついたのだ。


「愛されてないんだね」


 気休め程度に私が言うと、猫は一度だけ泣く。これ以上猫を見ていたくなくて、ツナ缶を開けずにその場を後にした。たぶん二度と猫に構いにくることはないだろう。帰る途中で自動販売機の隣にあった赤いゴミ箱にお椀を突っ込む。ぐちゃぐちゃになった中身と、自分の気持ちが似ていて吐き気がした。

 猫と仲良くしたいからここに通っていたんじゃないことは分かっていた。そして、家に居たくないという理由よりも大きくて恐ろしい感情が、ここに来る本当の理由だったのだ。

 たぶん、私は自分より非力なものを見て安心したかった。







 六時も過ぎてから家に帰ると、母さんが玄関で私の帰りを待っていた。いつもならそんなことはなかったのに、見たことのないような気味の悪い笑みをうっすらと浮かべている。


「おかえり」


 私はつい驚きの声を出した。嫌な予感がしたために、挨拶は悪気もなく無視をする。
 しかし、普段なら私の可愛くない態度に怒り心頭であるだろうに、母さんはそのことにも気を止める素振りもなく「待っていたの」と口を開く。よく見れば玄関には父さんの革靴も既にあって、両親が揃っているのだと分かった。
 何もないのに、二人が揃って私を向かえるなんておかしいと思った。さっきから頭のどこかでしている悪い予感が怖い。

 母さんは私の肩に手を置いて、ダイニングのいつもの席に座らせる。私の席の前には父さんが既に座っていて、本当に二人は私の帰りを待っていたようだった。父さんは腕組みをして申し訳なさそうな顔をしている。母さんは私の前に暖かな紅茶を置いた。


「話がある」
「…」
「大事な話だ」


 すり寄るような雰囲気が気持ち悪かった。彼らは黙って封筒を取り出し、その中から一枚の紙を取り出して私に差し出す。


「これを読んで」


 手渡された紙には『金井総合病院』と、精市の入院している病院名が書かれていた。そして、自分の健康状態をチェックする項目がいくつも並んでいる。よく状況も飲み込めないまま目を通して行くが、最後の確認項目で署名欄と、一文が添えられている。難しくて専門的な言葉が続くためよくわからないが、「同意」とか「提供」とか、そういう意味の言葉が書かれていた。


「まさか」
「精市が自由に体を動かせるようになるには、もうこれしかないの」
「なまえと精市。お前達は双子だ。二卵性でも適合する可能性は普通の人と比べるとかなり高い。検査だけでも受けてみてくれないか」


 両親は精市に血の元となる液を提供することを詳しく説明してくれた。二人はもう既に検査したのだが、精市のものとは型が合わないのだと言う。そこで私が最後の砦というわけらしい。すべての説明をし終わった後、彼らはもちろん私が同意すると思っていたらしかった。

 自分の感情がよく分からなくなっていた。私が同意すると助かるんじゃないかと思う喜びも確かに存在している。けれど、そんなものはわずかなパーセンテージを占めているに過ぎず、大半は怒りと悲しみだった。


「…でよ」
「…なまえ」
「ふざけないでよ!」


 私はその同意書を机に叩き付けた。その拍子に、今まで堪っていた涙が一気に崩壊するように溢れ出てしまう。しわくちゃになった用紙が濡れていくのを見ながら、息を吐き出すように今までの思いをぶつけていく。


「私がどんな思いで今日まで生きてきたか分かる!?都合のいいときだけすり寄ってきて、精市の方が大切だからってハッキリそう言えばいいじゃない!」
「そんなこと」
「そんなことないだなんて、よく言おうと思うね?『精市は優しい、いい子だ』、『なまえはそれに比べて』って。何もしていない私ばっかりきつく当たられて。出来損ないの娘への関心なんてないんでしょ!?死ねばいいとでも思ってるんでしょ!?精市のことしか頭にないくせに。精市が助かればなんでもいいと思ってるくせに」
「なまえ!お願い!もう」
「私なんて居ても居なくても同じなんだっ!精市だってそう言ったでしょ?どうせアンタ達も同じことを思ってるんだ!?」


 誰も何も言わない時間が続いた。久しぶりに大きな声を出したのと激昂しているせいで部屋には私の荒い息が響いている。
 袖で手荒く涙を拭うと、もう涙が止まり始めていた。きっと、また自分に諦めが着いたのだろう。そして、自分自身に呆れるのはこれで最後にしたい。


「…いいよ、もう。お望み通り消えてあげる」


 私はそう独り言のように呟いて、同意書と共に家を飛び出した。







 14歳の中学生の女子が行ける範囲なんて限られていて、それでも考えられる範囲の一番遠くへ逃げたかった。考えられる場所なんてなかった。私は頼る人も何もない。

 死のうと思って歩き回っていた。その姿は生きながら死んでいるようだっただろう。電車事故がいいか、飛び降りがいいか。両親が後悔するような死に方がいいなと思った。

 ふとそうやって死を考えていると、精市のことを思い出した。私がグズだったばかりに、精市に私を提供出来なかった。彼はきっとこの先一致する人が出てくるまで、動けないまま過ごすことになるのだろう。そうなったら彼もやっぱり死にたいだろうなと思った。
 鏡の前で首を絞めたとき、私の顔が精市の顔と重なったのはきっと偶然じゃなかった。好きなテニスができない精市。花に触れられない精市。病室でしか仲間と会えない精市。たぶん彼には自分自身が許せないだろうと思う。目を瞑って彼を想像してみても、動きもしない体をつねって泣いている彼がゆうに想像出来る。


 気がつくと精市の病院にきていた。面会時間は終わっていたが、妹である身分と適当な理由をつけると精市が一人部屋だったということもあり、特別に通してくれた。
 精市はぐっすり眠っていた。肺に空気が正常に送られて、胸が規則正しく動いている。私は傍の椅子に腰掛けて、しばらく彼の顔を見つめた。久しぶりに見たせいか、少し痩せたようにも見える。

 今まで精市の目が怖かった。私をまるで自分の妹とは見ていないような目が、常に恐怖の対象になっていたのだ。私は彼が羨ましくて仕方がないのに、それも片思いでもしているような一方通行の感情だった。

『お前なんか居ても居なくても』

 精市の目尻から涙が一筋流れている。こめかみへと伝って、枕に染みを作る。私は今なら彼の涙の理由が分かるような気がした。




「じゃあね、バイバイ」

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