2、


「精市が倒れた」

 私はその意味を最初は上手く理解することが出来なかった。どうして。朝はあんなに綺麗な笑みを浮かべていたのに。


「父さんは今から着替えを取りに帰るけど、母さんは病院に泊まるそうだ。父さんもついて、明日は病院から会社に行こうと思う」


 精市はそんなに悪いのだろうか。着替えを取りに帰るということは、入院するということだろう。
 今朝のことを可能な限り鮮明に思い出した。しかし、どれだけ昨日との相違点を探して比較しても、何も変わりなかったように思う。いつも通りに振る舞う彼がそんなに入院しなければならないほどの体調だったとは思えない。


「なまえ。お前は一人で大丈夫だよな」


 父さんの言葉が急に現実を突きつけてきた気がした。その念を押すような口調が、私に有無を言わせないようにしているようにしか思えなかったのだ。
 両親にとって、私よりも精市の方が大切だということは知っている。気が優しくて可愛い息子が、可愛げのない出来損ないの娘よりも大事なのは当然だ。

 大丈夫。いつも通り私が自分に失望すれば済むことだ。なんら問題はない。


「大丈夫」
「そうか。…帰りに何か買っていこうか?何か欲しいものは」
「…何もいらない。じゃあ」


 私は父さんにそう言うと静かに落ち着いて受話器を置いた。そして、つけていたテレビを消して自室に引き籠る。

 私は一人でも大丈夫。だから出来ればもう、私の知らないところですべてを済ませて欲しい。私とは切り離したところで起こった出来事にしておいてくれたらいいのに。
 精市のことは心配だけれど、今はそのことについて深く考えたくない気持ちが心の中でドロドロと渦巻いているようだった。







 翌日。学校では精市が入院したという情報が飛び交っていた。近くに居た女の子達の話を盗み聞きすると、なんでも部活前に突然意識を失ったのだと言う。近くに居た人が救急車を呼び、そのまま病院へ運ばれ入院が決まったそうだ。原因や詳しい病名は現在検査中だが、体を思うように動かすことが出来ないらしい。運動部の彼には致命的かもしれないとも噂されている。
 みんな、妹の私よりも詳しく精市の状況を把握していた。私なんて精市が倒れたことを知ったのは昨日の夜だ。能天気に猫と遊んだ後、誰もいない家で惨めにその知らせを聞いたことを思い出す。


『お前は一人で大丈夫だよな』


 私に納得を強いた父さんの言葉が、頭の中で反響していた。私は一人でも大丈夫だ。たとえ、実の兄の病状を知らされていないとしても、それは仲間はずれなどではない。だから一人でも、大丈夫。


「ねえ、幸村くんの具合はどうだったの?」


 よく知らない女子生徒が何人か私の席にきてそう尋ねた。彼女達の目は憂慮と好奇に満ちている。いつもなら、私を見る目は取るに足らないものを見るような目つきなのに、こういうときだけ彼女達はやたらと無邪気で厄介だ。そして、その悪気のない目が人を傷つけていることに気がつくことは一生ないのだろう。
 当然だが、私はその質問の回答を持ち合わせていなかった。「君たちの方が詳しいんじゃないか」と言いたいのを、大人しく喉元までで留めておくことに成功する。私が精市の病状に関して持っている情報は何もない。こっちが精市の現状を聞きたいくらいだ。


「知らない」


 私が言うと、彼女達は一様に変な顔をした。眉間にしわを寄せて、「どうして?」と問うか迷っているようにも見える。
 これ以上彼女達と話すのが煩わしかったので、私は質問される前に席を立つことにした。彼女達は相変わらず首を傾げて顔を見合わせている。その表情に嫌気がさした。そして、逃げるように教室を出たものの、「知らないことを知らないと言って何が悪い」とでも言えばよかったと少し後悔し、自己嫌悪している自分がいた。


「幸村さん」


 ぼんやりとどこに逃げ込むか避難先を考えていると、廊下で精市のクラスの先生が私を呼び止めた。私は英語担当である彼女の授業がとても好きで、彼女に対しても好感を抱いている。今時ではない太い眉がいかにも聡明で真面目な性格を表しているように思えた。


「お兄さんの具合はどう?」


 きっとその質問をされるだろうと予見は出来ていた。私は窓の向こうを見ながら、曖昧にぼかすように小さく首をひねる。さっきと同様に、私には答える言葉がない。


「さあ。わかりません」
「さあ、って。病院には行ってないの?」
「行っていません」
「そうなんだ」


 彼女は少し考え込んだが、すぐに表情を柔らかくした。そして、手に持っていたクリアファイルから一枚プリントを私に差し出す。


「先生ね、午後から出張があって幸村くんのお見舞いに行くことが出来ないの。それで、このプリントを彼に持って行って欲しいなって思ったんだけど」
「いいですよ」
「ありがとう。ついでに、お兄さんの様子を話して聞かせてもらえるかしら」
「はい」
「よろしくね」


 彼女の女神のような笑みに、私の少しささくれ立った心が和んでいくようだった。人に嘲笑以外の笑みを向けられたことが久しぶりで、私も少し不器用ながら笑顔を作ってみる。彼女は去り際にもう一度笑みを見せてくれた。

 手元には何てことはない印刷物が残っている。きっと先生がお使いを頼まなければ、私が精市の病院へ行くことはなかっただろう。ただでさえ彼の目線が怖いし、それに昨日私の知らないところですべてを済ませて欲しいと思ったばかりだったからだ。偶然にもこうして機会を得たのだから、この際自分から歩み寄ってみるのも悪いことではないのかもしれない。少し楽しみになっている自分がいることに、私自身が一番驚いていた。







 花屋に寄った。ちょうど病院の向かいにあり、見舞いの花が売り上げのほとんどを占めていると考えられる花屋だ。若い女性が一人だけ居て、規模の小さな店だった。

 昔から精市は女の私よりも花が好きで、花に触れているときの彼は実の兄ながら天使に見えた。今も美化委員の仕事で屋上庭園の管理のほとんどを自ら担っているらしい。私は彼の部活の人達が苦手なので、部活上の精市の姿を見るのはずっと敬遠してきたが、庭園で花と語らう彼は何度か目撃したことがある。また、家の庭にも精市の好きな花がたくさん植えられていて、母さんと半々で育てているようだ。
 私は花に無頓着であるため、彼の好きな花が一つも分からない。思えば私達兄妹は、そんな些細な話さえしたことがないと、今になって気付く。店員の女性に見舞い用でだいたいの予算を言うと、ガーベラの小さなフラワーアレンジメントはどうかと言われてそれに従うことにした。黄色やオレンジの花とかすみ草の小さなバスケットは、きっと精市も喜ぶだろう。

 病院で精市の病室を尋ねると、西棟三階だと教えられた。普段かかることのない総合病院の雰囲気はまるで異次元だった。私はついうろうろと遠回りをして、人を観察してしまう。せわしなく働く人や、怪我をしてギプスをしている患者などは分かりやすいが、病気の人は見ただけではどこが悪いのか分からない。精市もきっとそうなのだろう。だから、あんなに昨日の朝は健康そうに見えたに違いない。


「ここだ」


 日常で世話になることがない私はようやく異空間から精市の部屋を見つけ出すことが出来た。一人部屋だったそこにはしっかり『幸村精市』と名前のプレートが入っている。私は早く花を渡したくて、静かにスライド式のドアを開けた。
 中にはパイプ椅子に座る母さんが居た。目が合ってすぐ驚いたような顔をする。私がお見舞いにくることは、彼女の中では予想に反していたのだろう。私は何も言わずに病室の中まで足を踏み入れた。

 ベッドに横たわる精市はいつにも増して白い顔をしているように見えた。彼の黒目が私をしっかりと捉えている。いつもなら、この目が苦手なのだが今日は違う。私達はようやく歩み寄れるのかもしれない。私は花を取り出して彼を喜ばせようと考えた。
 だが、精市は相変わらず冷めた目を向けて唇を開閉させている。このとき、私は一抹の嫌な予感が過った。


「…お前が」
「えっ?」
「お前が病気になればよかったのに!」


 いつもの温和な精市の様子とは全く違う。叫ぶような怒号を飛ばし、鋭く睨む様は別人のようだった。
 彼は体を起こそうと必死にシーツの中で藻掻いているようだったが、それはどうも自分一人では出来ないらしい。私は学校で女子生徒が話していたことを思い出す。『体が自由に動かないらしいよ』、『どうしちゃったんだろうね』と言う興味本位の声を、記憶が勝手に再生し続けている。


「精市!」
「変わってよ!お前なんて別に居ても居なくても」
「やめなさい!」


 精市は両手をじたばたと動かして、まるで溺れているようだった。母さんに押さえつけられている彼は、私の知っている兄ではない。それでもきっと、彼は私に対してずっとそう思ってきたのだろう。つまり、『居ても居なくても変わらない人間だ』と。


「なんで…なんで俺がこんな目に…」


 何も言う言葉がなくて、俯いて唇を噛んだ。震えた手に力が入らず、持っていた花を床へ落とす。

 私はなにか思い上がっていたようだ。彼と分かり合えるなんて幻想を抱いて、彼に私という存在をちゃんと認知してほしいと願った馬鹿だ。実際、天と地ほどある私と彼が分かり合うことなんて出来なかったのに、双子の妹だからと自惚れた結果がこれだ。

 深く息を吐いて憤りを逃がしても、自己嫌悪ばかりが先行して絶望に満ちた。もう精市と理解し合える日は一生来ないだろう。彼がそれを望まないのだから。
 私は帰るために、暴れる彼に背を向ける。その背中にも、彼は泣きじゃくりながら暴言を吐いた。もう好きにしていいよと言いたいが、声が上手く出ない。


「なまえ!」


 母さんが私を呼び止めようとしていたが、もう何も聞こえないふりをした。これ以上ここにいたくないと心が悲鳴を上げていたのだ。


[back]
[top]