you must remember december | ナノ



みょうじなまえ編、四



 その日の朝から、ナオは珍しく怒っていた。ただ、怒っていたと言っても、それを周りの人には微塵も表に出さないような素振りだったため、彼女の様子が違うことに気がつく人は居なかっただろうと思う。私もナオが白石くんと話す所を見るまでは、思いもしていなかった。



「あいつら喧嘩中らしいで」



 休み時間になって、わざわざ忍足くんがナオに見られないように私に耳打ちする。私はナオと白石くんのことだと瞬時に理解して、喧嘩のわけを聞いた。しかし、忍足くんも喧嘩の原因は分からないと首を振る。彼が言うには、ナオと白石くんは滅多なことで喧嘩はしないらしい。それでも、ナオの様子を見ると違和感しか抱かない、と彼は言った。私も同じだというと、彼は私に微笑んだ。



「まあ。そのうちどうにかなるやろ」



 私も彼のように二人を楽観視すればいいのだが、私は上手くそれが出来る自信がなかった。友達が彼氏と上手くいっていないときは普通どんな声をかけるのだろうか、という疑問を解くために数学の時間を使う。ナオを盗み見ると、ちょうど私を見ていたようでふんわりと微笑む。いつものナオだ。けれど、私はどうしてもあの笑顔に隠れる悲しみをクリアにしたいのだ。

 昼休み。いつも通り教室でナオと昼食をとろうとお弁当箱を取り出したのだが、ナオは珍しく私を外に行こうと誘った。梅雨前線のせいでここしばらく雨が続いていたが、私は断ることなく大人しくナオに従う。ナオはきっと話したいのではないか、と思った。私をその相手に選んでくれたことが純粋に嬉しかった。
 私達はようやく人気のない場所を探し出し、そこでお互い昼食をとることにした。場所は旧校舎の空き教室で、随分誰も使っていないのか少し埃の匂いがした。ナオは雨など関係ないとでも言うようにすべての窓を全開にする。私はその後ろ姿を見ながら、ナオが話し始めるよりも先に自分から尋ねてしまっていた。



「ねえ、ナオ。なにかあったんでしょう?」



 ナオは私がそう尋ねるやいなや、動きをぴたりと止めてしまう。まるで電池が切れたように。



「…どうしてそう思うの?」
「だって、ナオ。白石くんへの態度だけ、明らかに変だよ」



 恐る恐る尋ねた彼女に対して、私はそれしか答えがなかったので当たり前のことを言うように言った。彼女はため息を吐く。彼女は雨を見ていた。



「私って、そんなにわかりやすいかな?」
「とてもね」
「はあー。そっか。じゃあ、蔵もきっと気付いてるよね」
「白石くんはきっと敏感だよ。それに私と違って、もっとナオのこと知ってる」



 私がそう言ったとき、心のどこかがちくりと痛んだ。そうだ。私は白石くんよりもずっとナオのことを知らない。そのことがすごく、この前から気味が悪くなるほど引っかかる。
 私はそれに気がつかないふりをして、雨の音を聞きながらナオの言葉を待った。ナオは少し元気のなさそうに笑うと、いつもよりもずっと落ち着いた様子で事情を説明してくれた。



「この前、旧校舎裏で蔵が女の子を抱きしめてたのを見たの」
「…浮気?」
「ううん。小春ちゃんにあとで聞いたら、それはその女の子が『最後に白石くんに抱きしめて欲しい』って言ったからみたい」
「そう…」



 私は生まれてから一度も恋をしたことがないので、ナオの気持ちも、白石くんの気持ちも、正確には理解できない。ましてや、その女の子の気持ちも上手く考えることは出来ない。
 ただ自分がされて一番嫌だなと思うことは、自分の恋人が自分ではない人を抱きしめている所を目撃してしまうことだろう。しかし、それには彼なりの優しさがあってのことだったのだろうし、その女の子なりには白石くんを諦める手段としてそれは必要だったのかもしれない。だから、一概に誰を責める気にもなれないでいた。友達であれば、その女の子を責めるのが筋なのだろうか。それとも、白石くんを八方美人だと言えばいいのか。ナオは何を望むだろう。ナオが一番、望むことを言いたい。

 私がしばらく考えていると、ナオはくるりと振り返り、私の前の席に座った。そして一際元気な声でお腹が空いた、と笑う。私は一瞬その声に自分の考えが分断されそうになったが、流されまいと小さく声を発した。これじゃあ根本的な解決には至ってないからだ。



「ナオ。あの、」
「ん?」



 しかし、タイミング悪くも遮るようにして私の携帯が震える。私は一言ナオに断ってから、自分の携帯の画面を見た。メール受信一件。差出人は忍足くん。先月、ゲームセンターへ四人で遊びに行ったときに交換して以来、初めての忍足くんからのメールだった。



『みょうじさん!速報やで!白石とナオの喧嘩の原因は、白石の熱狂的なファンからナオに危害を加えるとかなんとか言われて、白石がいやいやその子を抱きしめたことらしい!それでナオが誤解したっちゅーわけや!今、ナオと一緒やろ?はよ言うたって!』



 私はやたらとエクスクラメーションマークの多い疾走感溢れるメールを読んで少し罪悪感が生まれた。先程まであんなにタイミング悪いメールだ、と思っていた自分を許して欲しい。



「誰から?もしかして、蔵?謝るメールだったら許さないんだから」
「ううん。忍足くん。これ見て?」



 私がナオに忍足くんから来たメールを見せると、ナオはどうしたわけかふふっと笑った。私が何故笑うのか推測する前にナオの笑い方は大笑いに変わる。



「速報って!」
「ああ、忍足くん?」
「このメール、そのまま謙也の声で再生できると思わない?早口で、聞き取りにくくて」
「確かに」
「本当に謙也はせっかちだね」



 ナオは私に携帯を返すと、ようやく箸を持ってお弁当に手を付けた。私も忍足くんに返事はせず、先に自分の昼食を優先する。私もナオと同じようにお腹が空いていたからだ。
 私はまず白石くんの話をするのだろうと思っていたが、ナオは自分が誤解していた白石くんについてはメールを見ても特に何も言わなかった。きっと照れているのだろうと思う。自分のしていたことが誤解だったことや、白石くんが自分を守るためにしたことで勝手に傷ついて素っ気なくしてしまったことに。私なら、きっと同じようにそうする。ナオは卵焼きを頬張りながら、私に言った。



「なまえも気をつけた方がいいね」
「何を?」
「テニス部のファン。結構情熱的でしょ?」



 ナオは『情熱的』の部分にやや笑いを含めた。私もそこは苦笑いをしてしまう。情熱的なんていうものではない。あれは宗教にも似たものがあると思う。



「知らないかもしれないけど、私、一年のとき、よく先輩に呼び出しされてたの。生意気だって」



 私はその話を白石くんから聞いていた。たしか、初めてプリクラを撮った日だと思う。そうした経験も踏まえて、ナオは私のことを気にかけてくれたのでは、とも彼は言った。『だから、ナオと仲良くして欲しい』。まるで彼は父親の様でもある。



「それは白石くんから聞いたよ」
「え、本当?蔵から?」
「ナオと仲良くしてね、って」



 ナオは少し照れたようで、反応はせず少し黙っていた。そして、張りつめていた空気を抜くように深く息を吐くと、私を見据えて彼女は言う。



「なまえ。私、今日ちゃんと蔵に謝るよ」
「それがいいね」
「なまえと友達でよかった」



 私は一瞬、耳を疑った。今、ナオはなんと言ったのだろう。私の思い過ごしではないのか。
 私は友達からそれを言われてみたいと思っていた。それで、自分の場所が受け入れられたと認識できるからだ。私は一人ではなく、彼女という他者に存在を認められているのだと。それは私にとって生きる証のように思えた。

 ナオは私が反応しないのを見て、聞き取れなかったのかと勘違いしたのか、もう一度はっきりした声で言った。



『なまえと、友達でよかった』


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