you must remember december | ナノ
千歳千里編、四
千歳くんはいじめられている私なんかのためによくメールをくれた。私のことも彼女と同じのように『なまえ』と呼び始め、私は彼に抱いてはいけない親近感を抱きつつある。慣れ合いなんて求めてはいけないのに、私は確実にそれを欲しかけている。彼は私に『千里』と呼んで欲しいと言ったけれど、私は彼をそのように呼ぶことはしなかった。そうすることは甘えのような気がしたし、そのせいで彼が彼女のように死んでしまうことを恐れたからだ。
六月のじめじめとした生温い風が私の頬を撫でた。梅雨前線が今日から当分停滞するという梅雨入りのニュースを頭に思い浮かべながら、私は靴箱から抜け出したローファーの行方を捜索している。雨が降るか降らないか瀬戸際を堪えているような空だ。
靴が家出することは今学期に入ってから二度目のことだった。確か以前はゴミ捨て場の一画に無造作に置かれていたが、今回はそこにはない。同一犯による犯行かと思っていたのに、犯人も学習しているのだなと思う。私は野良猫のようにゴミ置き場を漁り終えて、両手についた細かい埃を払った。
ともすれば一体何処だろう。もう大人しく諦めて上靴のまま帰ってしまえば、彼らの笑いのツボも刺激できるのだろうか。いや、それでもあれは私のお金で買ったわけではない。四天宝寺制定の高い靴だ。見つけなければ親に申し訳ない。
私は犯人になったつもりで自分の靴の行き場を考える。私が犯人なら、それほど忌み嫌う人間の下足など一刻も早く人目のつかない所に捨ててしまいたい。そして、なるべく手間をかけず、その忌み嫌う人間が行きたがらない所に捨ててしまいたいものだ。私はその二つを考慮して、この学校の敷地内のあらゆる場所を思い浮かべる。私が行きたくない所と言えば、目立つ人間が集まる場所だ。そして、その中でも断トツで行きたくない場所と言えば…もうあそこしかない。私は何となく理解できた気がして、テニスコートの方へ向かうことにした。確かあの近くには、練習を見に来る女子生徒がゴミを出すことが問題となり、最近になって大きなゴミ箱が設置されたばかりだったはずだ。
そこに向かう間、私は先日千歳くんから届いたメールを思い出した。
『今度、練習でも見に来んね?なまえに俺がテニスしとるとこ、一回見て欲しか』
冗談じゃない。と、私はそのメールに卒倒しそうになった。彼はいまいち私の状況を把握できていないらしい。天然、というのだろうか。今日はあいにくの天候で女子のファンの子達は少ないかもいれないが、普段は山のような人なのだ。そのすべてが私のことを嫌っている。まるで飛んで火にいる夏の虫、のような真似を私はしたくない。私はいじめられることを仕方ないと諦めているが、わざわざ問題を作りに行くほど馬鹿でもないのだ。
しかし、ゴミ箱の中を捜索するだけでは勿体ないので、一目は彼を見てもいいだろうと考える。それで彼が満足するかは別として、一度見たからもう結構と突き放すことも出来る。私はポケットから携帯を取り出して、すばやく彼宛に文字を打つ。今は練習中か聞くためのメッセージだったが、返事は意外に早く返ってきた。
『俺はおらんけど、練習はやっとるよ。なまえが来るなら今から行く』
千歳くん、またさぼってたな。私はその返事を見て微かに笑った。これではまるで、友達のようだ。
私が睨んだ通り、テニスコートのそばの黒いゴミ箱の中にそれはあった。なぜか泥にまみれ、その上飲みかけのジュースが溢れていたため匂いが酷い。私はそれを取り出し、しばらくどうするか悩んでいた。このまま履いて帰るのは出来れば避けたいと思うほど酷い有様だった。
「千歳!お前、またさぼって」
私がどうしようかと思案していると、ちょうどそんな声が聞こえてきた。私が声のする方を見ると、少し遠い桜の木の陰で千歳くんと白石くんが話しているのが微かに見える。白石くんは隣のクラスだったが今はもう接点がないために話はしない。彼の声自体、久しぶりに聞いた気がする。私は甘い液体の滴る靴を持ちながらこれをどうするか対処する方法も思いつかないため、しばらく黙ってその会話に耳を傾けていることにした。
「ちゃーんとこうして来たばい。今日は気合いも入って…」
「ちゃう。毎日来てもらわな、こっちも困るねん。せっかく高まってきた士気も下がってまう」
「それは…すんまっせん」
「…まあ、もうええわ。それより、千歳に聞いときたいことがある」
「ん、なんね?」
やはりヘラリと頭を掻いてお辞儀をする千歳くんに対して、白石くんは少し怒っているようだ。あまり彼のそういう一面を見たことがないため、私は目が離せなくなってしまう。私は白石くんのテニスの情熱が彼をそうさせるのかと思ったが、それはどうやら違っていた。
「千歳。お前、みょうじさんと最近仲ええみたいやけど、どういうつもりなん?」
低い声で怒りを込めて、白石くんは千歳くんに私のことを言ったのだ。私はその質問が私に向けられているわけではないのに、ひどく恐怖して心臓が締め付けられてしまう。温厚な彼ではないような声だった。
「白石…?なんでなまえの事ば聞きたか?」
「先に俺の聞いてること、答えろや」
千歳くんはしばらく黙って、十分に間を取ってから答えた。
「…"友達"と思っとうと」
「友達?あの子が?なんで?」
「白石。お前、ちょっと様子がおかしかよ?なんでそげんなまえのこと気にすることがあるとね?俺が誰と仲良かろうが、白石には…」
「関係あんねん!」
白石くんは大声で怒鳴りつける。それは私の鼓膜を響かせ、脳を刺激し、その場から退却せねばと思う心を消し去ってしまう。私は彼の話を聞かなくてはならない。あの子を殺した罰として、だ。
「白石…お前…」
「ともかく、もうあの子を友達とかそんな意味分からんこと言わんとって。俺らが千歳と仲良くするから。あの子だけは辞めて」
「なんで…?」
「…あいつがあの子を許しても、俺らは許してあげられんっちゅー話や」
私は足がすくんで逃げ出すことも出来ず、ただ白石くんの想いを無断で受け取って自分を責めた。私が生きて彼女が死んだから、彼は私を許すことが出来ずにいて、彼女の死も受け入れることが出来ない。彼女が死んだときから。
死ねばよかったのは私だったのに。
それからは二人が何を話したか上手く聞き取れず、彼らは練習へと去って行った。私は彼らが居なくなってから、自分が壊れるまで自責し、涙を流す。救われることは一生ないだろう。それでもしおりが踏まれることよりも、靴が隠されることよりも、ずっとずっと悲しくて、惨めで、彼のためにも死にたいと心から思ってしまった。
私は靴をゴミ箱に叩き付けるように投げ入れ、俯いてその場を引き返す。
その悲しみはポケットの中に入れていた携帯電話が、ゆったりとした爽やかな音色を奏でていることにも気付く余裕も奪うほどだった。
『なまえ。今、どこにおると?話したいことがあるけん、また連絡する』
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