you must remember december | ナノ



みょうじなまえ編、六



 四天宝寺は見事夏の全国大会に進んだものの、神奈川のナントカと言う去年の優勝校に破れてしまった。その寄せ付けない圧倒的な強さに彼らが打ち拉がれてしまう様を、私は黙って見つめているしかなかった。試合がすべて終わった彼らは、それでも清々しそうな顔で『来年はもっと先へ、より高みへ』目指していくことを誓い合う。ナオもそれをサポートするつもりだ、とミーティングでは目を腫らして笑っていた。
 こうして彼らとの夏は終わった。

 八月の終わりに近いある日、私は一人で部屋にいた。自分がそのとき何をしていたのか忘れてしまったが、そこは大して重要ではない。問題はその日の午後、急にナオに呼ばれたことで起こる。



「なまえ、元気だった?」



 ナオは私を学校近くのファーストフード店に呼び出した。私は軽く微笑んで、ナオの向かいの席に座る。元気も何も、私達は大会の日から会っていなかったと言え、この夏とても頻繁に会っていた。ナオに会うのもわずかニ、三日ぶりだったように思う。よって、私の体調に別段変わりはなかった。



「今日は急にどうしたの?」



 私はカバンから財布を取り出し、ジュースだけを買いにいく準備をし始める。ナオとはたまにファーストフード店でおしゃべりをする時間があり、その傍らに私はオレンジジュースを置いておくようにしていた。話す内容は白石くんのことが多かったが、学校や宿題、近況などジャンル分けは一概に出来ない。私は聞き役が多かったため、自分の好きなオレンジジュースを飲みながらナオの話を聞いていることが多かった。
 なので、今日もそういう感じなのだろうと思った。特に変わった話もなく、些細な話を友人と設ける時間が私には貴重であり、ナオにとってもそうであろうと思っていた。
 だから、彼女が言ったことは私にとってはかなり意外なことだったのだ。



「なまえ、最近好きな人でも出来た?」



 耳を疑った。あやうく取り出したばかりの財布を落としそうになってしまう。最初は冗談めかして言っているのかと思ったが、ナオを見ると彼女は至って真面目な顔をしている。
 私は内心焦っていた。もちろん私にそんな恋愛感情を持って接するような人はいない。しかし、先日試合会場で出会った男の子が一瞬ちらついたのだ。たった一度、何を話したかすら覚えていないような相手が好きな人であるはずはないのに。



「…いないよ」



 私は努めて冷静に言葉を発した。ナオはぱあっと顔を輝かせる。私はこの笑顔を見て、先日の彼の記憶に鍵をかけることを改めて決めた。友達に吐いた確かな偽りだったからだ。ナオに言えないことなどないと思っていたのに、それを作ってしまった自分が突然醜い悪者のように思えてしまう。それならいっさい彼に関することを忘れて、『好きな人がいない』ということを本当のことにしてしまった方が気は楽だった。



「あのね、前から思っていたんだけど」
「…その前にジュース買いに行ってもいい?」
「あっ、すぐ終わるからもう少し聞いて!」



 ナオは私の方を満面の笑みで見ている。私は若干これから彼女の言う言葉に嫌な予感がしていた。嘘を吐いたことを、とがめられるのではないだろうかと落ち着きが無くなってしまう。きっとナオは鋭いから、きっと私のことなどお見通しでばれてしまっていたのだろう。
 私は席に座り直して彼女の言葉を待つ。目を見られまいとして、目は伏せていた。とがめられれば正直に言うべきか、嘘を通すべきか今の私にはわからない。



「なまえ。もし好きな人がいないなら」
「うん」
「…謙也なんてどう?」
「…え?」



 私は彼女の思いもよらない言葉に、大きな驚嘆の声が出てしまった。謙也とはもちろん、あの忍足くんのことだ。



「どう、って…?」
「だから、彼氏として」
「私の?」
「謙也が結構なまえのこと気に入ってるみたいだから」



 言葉が出ない。そんなことを聞くのは初耳だった。そもそも忍足くんの連絡先は知っているものの、私から連絡したことはない。試合中も当たり障りのないことは話したかもしれないが、ナオの言う”気に入られるような”ことをした覚えはまったくなかった。何かの間違いではないのか、と疑ってしまうほど身に覚えがない。



「もしなまえが謙也と付き合えば、これからも仲良く四人で出来るなあって。ダブルデートだってできるかも?」



 私はしばらく呆気にとられていたが、だんだんナオが一人で盛り上がっているのを見てどうでもよくなってきた。そんなことよりも、彼女がそんなことを言い出したのが私には少し心外だったのだ。
 『これからも仲良くできる』とは、そのきっかけがないと難しいことなのだろうか。ナオは私に離れて欲しいとでも思っているのだろうか。私はこうしてナオと友達関係が続けられればいいのに。彼女は私の気持ちを何も分かっていないのかもしれない。私は悲観的にナオの見解を聞き、彼女を少し残念に思った。
 しかし、だからと言ってナオから離れるという選択肢は私の頭にはないのだ。誰にも認められない生活に戻ることは決して恐くない。それが私への周りが下した価値なのだから。しかし、それよりもナオの笑顔が向けられない生活の方が、私を恐怖に陥れてしまう。それはずっと太陽の当たらぬ場所に居続けなければならないことと、同じくらい寂しいことだ。私の中の黒い人間がそれを叫んでいるような気がした。私はどこかでナオに依存し、彼女を独占したがっている。私の中の醜い私がそれを主張している。



「ナオは、私が忍足くんと付き合うことを望むの?」



 私はその質問を自分でしておきながら、ずるいと思った。私はきっとナオが『望む』と言えばそれに従うし、『望まない』と言えばそうしないだろう。私は自分自身のことを、ナオ任せにしたのだ。私の生活はナオで回っているとでも言うように、自分で判断しなければならないことを彼女に託してしまった。
 彼女は一瞬驚いた表情を見せた。だが、私に柔らかく笑む表情にすぐ変化する。



「そうなったらいいなあとは思うけど、結局はなまえの問題だから。なまえが好きなら応援するし、いいきっかけになったらいいなって」
「…どうしてそうなったらいいなあと思うの?」
「えっと…ほら?四人で遊べるじゃない?前のゲーセンだって…」
「この前だって充分遊べてたから、何も変わらないと思うけど」
「それはそうだね…」



 ナオは私のずるい質問を『君の問題だ』と一掃しつつ、私をどうにか納得させたいらしかった。私はどうすればいいのかまったくわからなくなってしまう。まるで平行線だ。



「謙也のことは好きじゃない?」



 遠慮がちにナオが言う。そうだったらハッキリ言って、と付け加える。私はそれをハッキリ言うほど忍足くんが好きなわけでも嫌いなわけでもなかった。でもそれは無関心という意味ではなく、ナオ以外に関わろうと思う人がいないのだ。
 私はこれまで誰かに認められたくて生きていた。勉強も委員会も運動も、すべてが認められたいという願望だっただろう。それを初めて認めてくれたのがナオなのだ。だから、ナオ以外に今更私のことを認めて欲しいとも思わない。私が認めて欲しかったのは、始めから一人だけでナオだけで満足だったのだ。



「好きかどうかじゃなくて。私は…ナオといれたらいいよ」



 私は、孤独の中で息をしている間に少し感情が歪んでしまったのかもしれない。人と人とがコミュニケーションをとる過程で、依存はしてはいけないのかもしれない。それでもそれを教えてくれる友人はいなかった。私には彼女だけが世界で、すべてなのだと確信を持って言える。
 ナオは少し困った顔をしていた。私はその顔に胸を痛める。何かを言いかけて辞めるという動作を、彼女が何度も見せる。きっと私に対する軽蔑の言葉を選んでいるのだと思った。



「ねえ、なまえ。なまえが私のことをすごく好いてくれてるのは嬉しい。私も大好きって思う」
「…」
「けど、なまえには他の人も見て欲しいな。だって世の中にはさ、もっといろんな人がいるんだよ?私や謙也だけじゃなくて、もっとたくさんの人がなまえを知ってくれるかもしれない。私だけじゃもったいないことだよ」



 私はナオに言い返すための言葉を、彼女がそうしたように頭の中で吟味した。けれど、結局見合う言葉が見つからずに途方に暮れる。そして、こんな自分はナオに相応しくないと、自責能力しか長けていないのだと知る。



「そうだね」



 私は彼女にそれだけ言った。それは肯定の意味だが、私の口調はどんよりとした濁りをみせており、決して肯定ばかりではない意味に捉えられるだろう。私はその意味を、同時に自分にも言い聞かせている。酷く濁った目で。
 私はいろんな人を見てきたのだ。その上でナオと出会った。ナオだけが私に笑ってくれた。それだけで私は満足だったのに、いつか欲張って彼女を独占しようとしていたのだ。



「ねえ、なまえ?」
「ナオ、ごめん。私はもう上手く話せそうにない」
「なまえ?」



 私はカバンを持って席を立った。私が彼女の傍に居ることは、おこがましいような気が急に沸いたのだ。



「また、新学期に。学校でね」



 それを言った時の絶望的なナオの瞳に、私の中の黒い人間が映り込んでいるように見えた。

 もう二度と彼女と話す機会はないだろう。私は帰り際、そんなことを思った。


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