you must remember december | ナノ



千歳千里編、六



 去年の今頃は、ナオに引っ付くようにしてテニスの試合を観戦しにどこへでも行っていた。流しそうめんを初めて食べたのも去年のことだ。顧問の渡邊先生は当初勝ち上がれば焼き肉を奢ると宣言していたのに、それを裏切ってコケシをプレゼントしていたこともまだ記憶にはある。しかし、私はどうしてもあの日のことを鮮明に思い出せない。あの西日本大会の日、私は誰と話をしたのだろうか。そして、どうしてその記憶だけがぽっかりと開いているのだろう。重要でないことはすぐ忘れてしまう私の頭が、あの人を重要でないと判断したからなのか。
 記憶とは厄介なものだ。忘れたい出来事は忘れられず、思い出したいことは何も出てこない。
 比べて、穏やかな日々を送る今年の夏休みの終盤。昼下がりに見た泡沫の夢がどうしても気になって、意識が覚醒した今もなお夢にすがりつく。彼は一体どこの誰だったのか、何も思い出すことは出来ない。あるいは自らの慰めのために後から付け足した記憶なのかもしれない。私には彼ほど存在が不確かな人間はこの世にはいないように思えた。記憶とはまるで白昼夢だ。

 一緒に出かける人も場所もないため、私はほとんど日に焼けることがない。そのため、私の肌は今にも透けそうなほど白いのが特徴的だ。夏休みは何処も行かずに、家でずっと本を読んでいた。宿題は早々に終わらせてしまったため、自由研究に力を入れたがそれも夏休みの前半で半ば飽きた。どうせ私には評価してくれる人はいない。

 私は既読した文庫本を三冊、トートバックに入れた。これから図書館に行こう。外は灼熱だろうが、肌が白すぎればまた新学期に笑われるかもしれないのでそれは厭わない。歩いて行くにはかなりかかるが、自転車であれば十五分で充分だろう。外に出ていないこの不健康な体をどうにかしたいのだ。
 私は冷蔵庫に冷えていた五百ミリリットルのスポーツドリンクを取り出し、一気に飲む。それでも半分くらいのところでストップして、濡れないようにタオルを巻いてからトートバックに入れた。口内に広がる甘い味が、熱中症の予防になるのかは未だに謎である。しかし、これを飲むと去年の夏のことを思い出して、心の中が甘酸っぱくていっぱいになるのだ。

 Tシャツにハーフパンツという、プールにでも行きそうな格好で家を出た。母親は焼けることを懸念して日傘を持って行くようにと言ったが、返事をしただけで実行には移さない。
 灰色のカバーをかけていた自転車を脱がせ、ダイアル式の鍵を外す。ダイアルの番号は私の誕生日だ。罪深い私は、この世に私の誕生日を知っている人は家族しかいないのだと一瞬悲観することも忘れない。傍に置いていたトートバックを籠に詰めて、スタンドをあげた。ここまでの行為でも、額に汗が滲んでしまうほどの猛暑だ。もう八月も終盤であるのに、このままでは二学期が始まるまで残暑は続くだろう。
 自転車は清々しかった。風を切る感触が何とも言えない。汗が風に乗り、髪が踊る。ハーフパンツから出た素足は、じりじりと太陽に焦げる。

 学校の前を通り、右折したとき前方に見知った人物の背中が見えた。背が高く、髪が癖毛のあの少年だと、一目見ただけでわかってしまう。大きな荷物を肩からかけて、ふらふらと今にも暑さに倒れそうだった。私はその姿にとっさにブレーキを握りしめてしまう。油の枯れたブレーキの鋭い音が鳴る。そのまま通り過ぎればよかったのに、私は反射的にそうしてしまったのだ。



「…なまえ?なんで」
「え、えっと…」



 彼はブレーキの悲鳴に汗だくでこちらを振り返った。私は自転車から下りずに、彼の質問であるここにいる理由に答えようとする。それだけすればここから去ればいいだろうと思った。
 しかし、彼はあろうことか私のトートバックの入ったカゴに自分の大きな荷物を乱雑に置いたのだ。私はその行動に驚き、声を失くしてしまう。こんなに彼は不躾な人だっただろうか。



「ちょうどよかったばい。寮まで荷物乗せて行ってくれんね?」
「え?」
「心配せんでもよかよ。自転車は俺が漕ぐ。なまえは後ろに座りなっせ」
「ちょっと」



 強引にもハンドルを取り、私を下ろした千歳くんは自転車の荷台を軽く叩き示した。私はというと、そんな勝手なことを急に言われても困ると反論する。それに、今の彼はどことなく今にも倒れそうな危なっかしさがあった。脳裏によぎる症状は熱中症だけ。私がそれを指摘すると、彼は力なく笑った。



「なーに。ちょっと疲れてるだけたい。帰省しとって、今朝、新幹線で帰ってきたとこやけんね」
「…まさか駅から歩いてきた?」
「いっつもそうしとるよ」



 それを聞いて私は驚く。四天宝寺は最寄り駅が二つあり、一つは図書館寄りにある地下鉄の小さな駅。そしてもう一つが、歩いて結構かかる大きな駅だ。以前、ナオとよく遊んだゲームセンターなどはそちらの方にある。私は彼の進行方向的に後者の駅から歩いて来たのだと悟った。その駅には新幹線こそ停まらないが、直通の快速電車が走っていることも知っていた。
 ナオと遊んだあの時期は歩いても清々しい天候だった。しかし、今日のこの殺人的な太陽の元ではいくらか危険を伴うだろう。私は彼のカバンを退かし、自分のトートバッグからタオルにくるんでいたスポーツドリンクを彼に渡した。きっともう随分ぬるくなっているだろうが、ないよりはマシだと思った。



「これ飲んで」
「なんね、大丈夫ばい」
「いいから。これ」



 彼は私に圧倒されるように、手渡されたドリンクを持った。おまけに私はドリンクの水滴で少し冷たく濡れているタオルを彼の首にかける。これではまるで、マネージャーのようだ。



「すまんね、なまえちゃん」
「…ちゃんと寮まで荷物も運ぶから。歩ける?」
「ああ、歩けるばい。…すんまっせん」
「いいよ」



 私は千歳くんからハンドルを返してもらい、そのまま歩き始めた。私は千歳くんに、飲むだけでなく首や脇にドリンクをあてるように言う。すべてナオが口をすっぱくして言っていたことだった。熱中症は、命にも関わりかねないと彼女は夏の日によく危惧していた。
 千歳くんは私の右側を歩き続ける。額にドリンクを当てて、たまに唸っている。この程度なら軽度だろう。寮に入れば誰か居るだろうし、きっと大丈夫だ。



「なんかお礼せんといけんね。なまえ、何が好き?女の子やけん、アイスとかプリンとか、甘いものがよかねえ?」
「えっ、いいよ。何もいらない」
「…っていうのは建前ばい。俺がなまえとデートしたかち思って、誘ってるだけ」
「で、デート?」



 千歳くんは私のドリンクを飲みながら言う。それも、焦るようにだ。



「聞いてくれんね?全国大会ではあの青学の部長・手塚くんと試合できた。いい夏の思い出になったばい。ばってん、夏休みらしかことはなーんもしとらんよ。これでほんまによか?俺の青春」
「ふふ」



 彼がおどけた様子で言うのが面白くて、私はつい笑ってしまう。私だってそうだ。夏休みらしいことなんて何一つしていない。友達と抱き合って送る青春は、何もなかったのだから。
 千歳くんは顔をより一層赤くした。私は彼の熱がまた上がったんだと思う。しかし、それは違った。



「なまえ。今、笑ってくれたと?」
「え?」
「なまえは笑った方がよかよ。いつもよりずっと綺麗ばい」



 彼はニコッと笑い、手を伸ばして私の頭に触れる。私はその感触が懐かしいと一瞬感じた。しかし、あの携帯番号を交換した時に彼が私の頭を撫でたことを思い出すと、そんなに久しぶりなことではないのかもしれない。しかし、私にはこの言い表せない感覚が懐かしいと感じたのだ。



「なまえ。やっぱり俺と夏休みが終わる前にデートしてほしか。そんで、俺はもっとなまえのこと笑わせてやりたかと思っとるよ。他の男じゃ駄目ばい」
「な、なに、急に…そんなこと…」
「夏休み最後の日、十時に学校の前で待ってる。絶対来てほしか」



 千歳くんはドリンクを飲み干して、何か決心するような息を吐く。私は一方的に決められた約束をどうするか頭を回転させていた。何か都合があれば断るのだが、幸か不幸か予定は何もない。何しろ私には友達が居ないのだから。
 気が付けば寮の前に私達はついていた。千歳くんの顔色も、随分よくなっている。私はとりあえず一人で考える時間が欲しいため、彼とここで別れるのは都合が良かった。



「荷物すまんかったばい」
「…どういたしまして」
「待っとるばい」



 最後に、まるで父親が子どもにするようにがさつに頭を撫でられる。そしてカゴの中に入っていた荷物を肩に担ぐと、彼は片手を上げて去って行った。
 私はしばらくその場に立ち止まって彼の背中をじっと見つめていた。大きな背中だ。どうしてか、私はそれに触れたくなってしまう。もっと彼を知りたくなる。私の心の中に、炎が燃える。
 私は彼の背に独り言のようにつぶやいた。



「夏休み最終日、十時、校門前」



 まるでそれは何かの暗号のように、頭にインプットされて離れはしなかった。


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