you must remember december | ナノ



みょうじなまえ編、五



 ナオに一度テニスを見てみないかと誘われて来たのは西日本中学テニス大会決勝戦の会場だった。生でのスポーツ観戦というものが初めての私にはテニス大会がどういうところで行われているかさえ想像もつかなかったが、場所の雰囲気はテレビで何度か見たことのあるサッカー場に近いものがあると思う。テニスコートのある中央部は太陽が照るように吹き抜けになっており、観客席は四方を囲んで屋根がついていた。正直この暑い七月の日差しに耐えられるか心配だった私も、これなら大丈夫そうだと安心できる。今年は猛暑で、既に熱中症での死亡者が出ていたのだ。

 マネージャーは特別に選手の控え席に通されるらしいのだが、今回は私も特別待遇ということでその控え席に座ることになっている。私はナオの手伝いをすることを事前に申し出ていたため、タオルの入った補助カバンを持っていた。その姿は誰がどう見てもマネージャーそのもので、誰も私の存在を部外者だとは思わないだろう。それで、会場の一画にある関係者ブースにすんなりと入ることを許される。案外簡単なものだと思う。
 金色くんもそう思ったのか、私にこっそりと『このままマネージャーになればいい』という提案をしてくれた。しかし、私が首を縦に振ることはない。どう考えても、予想外の厄介ごとに巻き込まるだけ無駄な行為だ。私はナオの傍に居ることができさえすればそれでいい。他のテニス部員との間柄を誤解されるような真似はしたくないのだ。
 第一、私はテニスがどのようなルールであるかろくに知らなかった。それはマネージャーになる上でも致命的であり、今日この場でも下手なことは言えない危機感が芽生える。そんな私が彼らを上手く評価できるわけでもないので、ここは大人しく彼らの活躍を見守ろうと決めた。

 喉の乾きを潤すために、スポーツドリンクを飲んだ。甘い味がする。私はその味を確かめながら、ナオやみんなが対戦相手について説明してくれることを聞いていた。



「対戦相手は九州の獅子楽中っていうところなの」
「しし…?」
「九州ニ翼と呼ばれている全国区プレーヤーがおるんやで。ほら、さっき会場来てすぐ小春がぶつかってしもた奴、おったやろ?あいつらや」



 白石くんも私と同じスポーツドリンクに口を付けていた。さっきナオと白石くんと忍足くんと私の四人で、自販機で買ったものだった。私達はすっかり仲良しグループになっている。
 私は白石くんの言葉を聞きながら、さっき金色くんがぶつかった男の子を思い出す。綺麗に染まった金色の髪の男の子だった。学生服に身を包んでいるものの、その姿は凛としていて隙がなかったように思う。現に彼は金色くんがぶつかっても、よろけたりはしていなかった。しかし、その隣にいた男の子に関しては覚えていない。背が高かったような気がするが、私はもともと人の顔を覚えるのが苦手だ。



「ダブルスで来るんだよね?九州ニ翼」
「ああ。せやから、俺と白石のペアか小春ユウジペアで早々に潰すっちゅーことやな」
「無駄のないオーダーや」



 私はナオの手元にあったオーダー表を覗き見る。確かに渡邊先生はその気らしい。その九州ニ翼がどちらのダブルスであたっても勝てるように最善のオーダーだと思う。

 こんな様子を見ていると、なぜか私が緊張してきた。彼らはよくこんなプレッシャーを耐えているなと感心してしまう。私なら耐えられない。腹部に感じる鈍い痛みが、私の緊張を物語っている。
 私は軽く胃を擦った。発生する摩擦熱でどうにか痛みを収めたい。でなければ、なにか格好悪いような気がする。



「なまえ?お腹痛いの?」



 しかし、友人であるナオは私の異変に気付くのが早かった。私はそんな彼女に嬉しさを感じつつ、苦笑いを浮かべる。



「トイレ行く?ついて行こうか?」
「ううん。大丈夫。一人で行けるよ」
「そう…?何かあったら携帯に連絡してね?」



 ナオは心配そうに私の顔を覗き込む。私は一言みんなに謝って、その場を離れた。

 一人でお手洗いには行けたが、あまり気分は緩和されなかった。ずっしりと錘のようにのしかかる痛みは未だに晴れないでいる。私は元の場所に帰ることなく、トイレの傍のベンチに座っていた。たぶん人酔いもあるのだと思う。たくさんの熱気に包まれた会場は私が想像しているよりも暑いものだった。
 ハンカチを濡らして首に当てたり、額に当てる。お腹は擦る。忙しい体だと自分でも思う。私は前を通り過ぎる人を観察しながらしばらくそこで時間をつぶした。
 しばらくしているとふらふらとしている背の高い男の子が見えた。彼は先程からこの前を行ったり来たりしている。青いストライプのテニスウェアを着て、癖毛の目立つ長身の男の子だ。彼はしばらくその場をキョロキョロとしたあと、まるで宝物でも見つけたかのように明るい表情で私を見た。目が合ってしまった。



「あの、すんまっせん。試合会場はここから左であっとるとね?」
「え?ああ。はい」



 きっと彼は今から試合に出場する人なのだろう。そんなことは着ているテニスウェアからも一目瞭然なのだが、私は改めて考えた。なのに、彼は迷っている。右は出口だ、と付け加えると彼は納得したように声をあげた。



「その制服、四天宝寺やね。大阪の人は親切たい!すまんね。助かった」



 彼は無垢に笑って私を親切だと言う。私は返答に困った。何か彼は私の知っている人達にはどれも当てはまらない、不思議な感じのする人だと思った。



「親切なんて。そちらは…」
「獅子楽ばい。今日の四天宝寺の対戦相手」



 私は学校名を聞いて、そういえばそんな対戦相手校だったことを思い出す。私は『九州ニ翼』という言葉に意識を取られて、肝心な相手校の名前を失念してしまっていたらしい。人の顔も、名前も覚えることは苦手だ。覚えたとしても、すぐ忘れてしまうことの方が多い。私は興味のないことへの関心が極端に薄いことを昔から感じていた。



「頑張ってくださいね。私、テニスのことは詳しくないですけど、応援しています」



 私は腹痛のことも忘れて彼にそう言う。それは本心だった。四天宝寺を応援しているか、と言われればそうでもないのかもしれない。私はナオの言葉通り純粋に『テニス』を見に来ただけで、勝敗に関してはどうでもよかったのだ。
 ところが目の前の青年は私の方を唖然とした表情で見ている。そして、何の了承もなしに私の横にその大きな体を曲げて座った。



「普通、反対のこと言うんじゃなかと?負けてくださいとか、勝つのは四天宝寺とか」
「え?…『負けてください』って言ったところで、負けていただけるんですか?」
「ヤダ。絶対負けん」



 彼はまるで小さい子どものように言った。体はこんなに大きいのに、言動は意外にも幼いようだ。
 その少年のような笑顔とは逆に、大きな手が私の頭に乗る。そして初めて会ったはずの私を慈しむように撫でた。私はその心地よさについ目を細めてしまう。どうしてか、ひどく安心している。
 私は彼の左耳にピアスがあることに気がつく。太陽光で照らされた綺麗なピアスが見える。ピアスで思いつくのは一つ年下のテニス部員の男の子だ。ろくに話したことはないので、名前は覚えていないが、その年下の男の子のピアスとはまた違った美しさが彼によく似合っていた。まるで一番星のように、傍らでそっと輝いている。



「むぞらしかね。よかったら名前教えてくれんね?」



 私は柄にもなくドキドキしてしまい、口をつぐんだ。方言のせいで言葉がどういう意味かは分からなかったが、それが私を褒める言葉だと言うことに私はなんとなく気がついていた。自分のうちに燃える炎に、気がつくことは初めてだった。



「…名乗るほどの者じゃないですから」
「なら、またもう一回会ったとき。そんときは絶対名前教えてほしか。友達になるばい」



 彼はニコッと笑って立ち上がる。私の頭に置いていた手をぐっと上に伸ばして背伸びをする。彼の作り出した大きな影に私は埋もれてしまった。



「じゃあ、また」



 その場に取り残された私は、しばらく呆然とした。一瞬ながら初めての感情だった。一体今のはなんだったんだろう。彼が居なくなってしまった今、内なる炎が小さくなってしまったように、それは私を見失わせる。ただ、不思議と腹痛は消えてしまっていた。
 ナオから何件かメールや電話がきていることに気がついた。私は申し訳なさとともに、携帯を耳に当てる。



「もしもし、ナオ?私、しばらくそっちには戻らないけど心配しないで。ちょっと人に酔ったみたい…。大丈夫だから」



 それらしく言い訳をして、私はその場に留まっていた。きっと試合を見てしまったら、私は彼らの前で四天宝寺の応援するフリができなくなってしまうと思ったからだ。




 私はそれからしばらく彼のことが気になって仕方なかった。それを無理矢理消そうとしたのは、ナオと一緒に居る方が楽しかったというのもある。しかしそれよりも、私は自分の中の感情を表に言うことがなんとなく恥ずかしくて、自分の頭の一番遠くに鍵をかけて厳重にしまい込んだのだ。だから、時間が経てば経つほど彼がどんな人であったか、容易く思い出すことは出来なくなってしまった。声も、容姿も、最後の言葉も。
 ナオが死んでからは、もう彼のことを何も覚えていない状態に近い。十二月のあの日に、私の記憶を厚く上書きしたあの出来事のせいで、私は彼を完全に忘れてしまった。私がそのことを思い出す暇さえ、痛みに埋もれてなくなってしまったのだ。

 それを私はナオのせいにはしない。


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