神様の部屋 | ナノ
6、
借りた2冊の本を持ってチャイムを押せば、先日同様『鍵は開いている』と言われた。みょうじに不用心だと伝えておいたほうがいいかもしれない。そう思いながら、熱に当たったドアノブを引いた。
玄関に入っても出迎えてくれない彼女は、また奥でコーヒーを入れているのだろう。豆を挽いている音が聞こえる。
「おじゃまします」
聞こえていないだろうが、とりあえず礼儀として言ってみる。そして両脇に置かれた本の山を注意深く超えて、彼女のいる部屋に向かった。途中であの神様の部屋が気にならなかった訳ではないが、勝手に踏み入れてはいけない聖域なのだと思い込んで辞めておいた。
「借りていた本だ。ありがとう、とても面白かった」
「…」
俺も見ずに無言でコーヒーを淹れる。俺は、元のあった白の一段だけなにも入っていない棚に2冊くっつけて置いておいた。この段だけが、この部屋の唯一の空白だった。
俺はコーヒーが淹れ終わる間、辺りの本棚を凝視しながら歩いた。
が、先日は気がつかなかったとあることに気がつく。それは、俺が敬愛する遊馬優の小説がこの部屋に一冊もないということだ。あんなにマイナーな本があるのに、一冊もないというのはおかしい。彼女は、好きじゃないのだろうか。
「遊馬優の小説は、嫌いなのか?」
俺の質問に彼女が手を止めて、こちらを向く。
「…知らない」
「え?」
「読んだことないの」
驚いた。こんなに本を所有しているくらいだから、きっと読んだ上での判断なのだと思った。しかし、違ったらしい。読んだことがない、と彼女は気丈に言い放った。
俺はすかさず自分の鞄から、持ち歩いていた小説を差し出す。俺の一番好きな小説でもある『神様の部屋』だ。俺は周りにこの小説について話が出来るような友人を持っていない。そのため、これを機にみょうじにも気に入って欲しかった。なにより、この小説の良さを知って欲しかったのだと思う。
「よければ読まないか?」
「…」
「実は、俺はこの作者…遊馬優が好きで。これは、その中でも俺が一番好きな小説なんだ」
「…」
「よければ読んで欲しい」
読書家の中には、食物と同じでもちろん食わず嫌いがある。読む前から先入観を持って、取っ付きにくいものを排除しようとする思考だ。
俺はなんとなく、みょうじが遊馬優に対してそういう気があるのではないかと思った。だから、割と拒まれるのも覚悟で押しつけのように言ってしまっていた。そういう先入観のあるものこそ、読んでみると以外に嵌ったりする。
雨音のようにコーヒーがしたたる音が響く中、みょうじは俺の方に近寄って本を手に取った。そして、全く表情もなく、表紙だけをずっと眺めている。
蒼い表紙のそれは、俺をなんども別次元の人間にしてくれたのだ。その表紙を見るだけで、俺は胸がわくわくしてしまう。だから、みょうじにも好きになって欲しい。
「…」
「嫌か?」
彼女は首を横に振った。
「違うの」
「…」
「今まで怖くて読めなかっただけなの」
震えるような声だった。そして、机の上に本を置いて、彼女はまたコーヒーを淹れるために俺に背を向ける。まるでもう触れたくもないと言うかのようだった。
『怖くて読めなかった』とは。どういう意味なのだろう。もちろん、この本のジャンルがホラーな訳ではない。死を思わせるシーンは最後の1ページのみだ。もちろん、彼の心情と自分を重ねることが出来る経験ある人間なら、作者の描写のせいで恐ろしいほどに心をえぐられることもある。そう言った面では”怖い”かもしれない。
彼女は先日と同じマグカップにコーヒーを淹れて、俺の前に差し出した。いい匂いがした。
「怖い、とは」
「…私は感想も自分の感情も、上手く言えない方だから。でも、そういう意味では、遊馬優が嫌いなのかもしれない」
彼女は席に座り込み、コーヒーに口付けた。
俺はこのままこの本を置いていこうと思った。気が向けば読めばいいし、読まなくてもいい。
真似してコーヒーを口に含んだ。丸みを帯びた優しい味だった。
「ところで、柳くん。私に話があるんだよね?学校のこと?」
「あ、ああ」
「それって、どうして学校に来ないかっていう話?」
「そうだ」
「先生みたいなこと聞きたいんだね」
失望した、と言われたような気がした。彼女は俺をじっと見る。
「すまない。だが、理由があれば、相談に乗る」
「そういうの、おせっかいって言うのよ」
「そんな類いの物ではないが、単純に気になっていたんだ。それに、お前は時折俺を嫌っているような目をしている。そうだ、あの日の朝…駅の向いのホームで…」
数日前、彼女は俺にきつい睨みを効かせた。到着する電車によって遮られるまで。思えばあの日から、俺は彼女のことばかり考えているような気がする。とらわれてしまったのだろうか。
「私は別に柳くんのこと嫌ってる訳じゃない」
「じゃあ、なぜあのとき」
「それは、この本を持っていたから」
「…」
「柳くんは学校でも時々読んでたでしょ?この小説」
「ああ…」
「私はこの本が、世に回っていることが怖い」
俯いて、それきり何も話さなくなってしまった。
本を忘れたふりをして、みょうじの家に置いて来た。彼女はなぜあんなにも本を怖がっていたのだろう。そのことばかり考えてしまう。
もっと話さねばならないと思った。彼女がどうしてあの本が嫌いなのかは置いておいて、もっと普通の友人らしい会話もしたい。そういえば、今まで見たことはないが、彼女はあの部屋に一人で暮らしているのだろうか。家族を見たことがなかった。
俺は好奇心が旺盛な方だ。なんでも首を突っ込んで、彼女を失望させたり、苦しめてしまっているかもしれない。自分の欲求ばかりで動いている。自分の知的好奇心が怖い。
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