神様の部屋 | ナノ



3、

アパートの白は随分黄ばんでおり、建ってから随分経つのだろうと思った。そこは古民家が建ち並ぶ狭い路地に位置しており、その割には比較的高層な4階建てのアパートだった。壁は少しヒビ割れている。また、小学校が近いのか夕方帰宅する子ども何人かとすれ違い、斜陽と彼らの笑い声にノスタルジーを感じずにはいられなかった。



「あそこだ」



担任が指した3階の一番端の部屋。遮光カーテンが引かれて中は見えないが、あそこにみょうじは生きているらしい。
俺はスタスタと目標を目指す担任の後を追った。螺旋階段の手すりは色が塗り替えられたところらしく、美しいミントグリーンが目に映えた。


3階まで来ると、ワンフロアに等間隔で5つの白けたドアが並んでいる。
担任は俺に何も話しかけることなく、ただひたすら奥の部屋をめざした。他の部屋となんら変わらないドアと、斜め右上に掲げられている『みょうじ』の文字。一番奥の部屋を目の前に、俺は気分が高揚するのを感じる。表札用シールは半分ほど剥げかけていた。

担任は迷うことなく慣れたようにインターフォンのボタンを押した。向こう側で気持ちいいほどの呼び鈴が鳴っており、その音を聞きながら俺は自分が話すわけでもないのに軽く喉の調子を整える。


部屋の主の返事はなく、しんと静寂だけが包んでいた。もう一度担任がボタンを押そうとした時、ようやくインターフォンを上げるような音だけが俺達の耳に届く。
人間の声はない。これが、一方的な会話という意味だろう。



「立海大付属高の高橋です。本日は進路希望調査票を届けに来ました」
「…」――反応はない。
「それからもう一つ。今日はみょうじさんのクラスメイトも一緒です」



先生は横目でちらりと目配せして、俺に目で『話せ』と言った。俺は念のためもう一度声を整えて、インターフォンに口を近付ける。心臓が脈を強く打つ。



「…柳だ。今日は偶然先生と会ったもので、少し寄り道をしたんだが…」
「…」



やはり、と言うか返事はない。先生は横で首を振った。『駄目』ということだろう。きっと、いつもこのような感じなのだろうと推察がいった。

やがて俺達が何も言わないとわかったのか、ドアの向こうで回線は切断された。まるで『今日の会話はこれにて終了』と言うかのように。
結局、彼女にしてみれば話しもしたことがないようなクラスメイトに心を開く理由が何もない。面倒なだけだ。俺が逆の立場でも、そうすると思う。

先生は鞄からプリントを取り出し、ドアに付属している郵便受けに入れる。吸い込まれていくようにみょうじの部屋に入って行くそれがうらやましかった。



「いつもこのような感じなのですか」
「ああ。だから、気にするな。きっとみょうじも喜んでくれただろう」



全くそうは思えない。

俺の腑に落ちない表情を諭すように先生は俺の肩に手を置いて、元来た道を辿り始めた。そして、『このまま学校に戻るから、気を付けて帰るように』と言い残して、あのミントグリーンの階段を下りて行ってしまった。
彼は確かに律儀だが、少し諦めが早い所がウィークポイントだと思う。あとで、メモにそう記しておくことにする。



俺はそのたった一度のことに納得がいかなかった。このままでは引けないという何か俺を奮い立たせるような強い力が働いている。そして、その引力に勝てずに、もう一度ボタンを押してみることにした。
再び訪れた静寂の中の滑稽なほど平凡なチャイムの音。

今度は返事どころか、ガチャリという特有の音すら聞こえない。やはり諦めるしかないのか、とドアの前で頭を垂れていれば、しばらくして情けをかけるように先ほど同様の音が聞こえて来た。



「みょうじ?」
「…」



返答はない。



「…先生はもう帰ってしまった。ここには俺しかいない」
「…」
「急なことで、何を話せばいいかわからないな。とりあえず、いきなり来てすまなかった。その、なんだ」
「…」



俺らしくもなく口ごもった。今朝のことについて触れてもいいものだろうかと迷っているからだったが、触れずにここで回線が切れれば俺とみょうじを結ぶ接点が再び持たれることはないだろうというジレンマに襲われる。
枯渇する喉。こめかみに、じわりと汗を感じた。



「…」
「みょうじと一度、話がしてみたかった」



ただ独り言のように俺がポツリとそう呟くと、思いがけないことが起こった。



「中、入りますか」
「なに?」
「鍵は開いてます」



今まで誰かと話をしているみょうじを見たことがない俺は、初めて聞く彼女の声に驚いた。同級生のはずなのに、やけに大人っぽく凛としている声。
その声が、俺をこの部屋へ誘っている。よく知りもしない、見ず知らずの俺を。



「本当にいいのか」



そう聞く前に途絶えた回線。一瞬迷ったが俺は自分の好奇心に結局打ち勝つことが出来ない。その確率は100パーセントだ。

銀色のドアノブに手をかけた時に感じた緊張感は、小説を読む前のような気持ちに似ていた。


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