神様の部屋 | ナノ



2、

「みょうじ」



その名前は返事がないために、一度きりしか呼ばれない。声が聞き取りづらかっただけかもしれないのに、それはもう何か月も前から起こる日常だった。クラス中の生徒も何も言わないし、気にも留めない。
俺だってそうだ。みょうじがいない教室を、まるで数学の定理のような不変のものとして捉えている。

でも、今日は違った。俺は、みょうじの名前が呼ばれたとき、心臓が強く脈打って何故かひどく動揺したんだ。



あの時間。学校とは反対方向の下り電車で、彼女はどこに向かったのだろう。ただの好奇心でしかないが、俺は彼女の行方が気になっていた。
それに、彼女の強い目。まるで俺を忌み嫌っているかのような、あの目。
俺が彼女に何かしたというような記憶は全くない。第一、このクラスでみょうじが学校に来ない理由を把握している者はいないだろう。

彼女が来ていた数ヶ月前のことを思い出しても、彼女は誰とも関わりも持たず、頬杖を付いてただ空と話しているばかりだった。
そうした異質な存在は、異質であるが故に関わりを持とうとする者さえ現れない。つまりは、誰も関心がなかったのだ。その当時からみょうじは、まるでこのクラスでは空気のような存在だった。

前から送られてくる白いプリントを受け取って、俺はぼんやりとそれを眺めた。並ぶ文字列は、小説のそれより醜い。



「テスト期間終了以降、順次個人面談を行っていく。全員今週の金曜日までに必ず提出するように」



担任はそう言うと教室を出て行った。
一気に騒がしくなる生徒の話題は、今配られたばかりの進路希望調査票に集まる。ほぼ全員が一様に立海大に入学するために、この紙には大して意味はない。内部進学か、外部進学か。2つの項目しかないのも、無意味さが露呈していると言える。他にいくらだって道はあるはずなのに、俺達の目の前にはレールが2つしかないのだ。
それをここにいる全員が当たり前として受け入れているという事実を、俺は馬鹿げたものだと折り曲げて机に仕舞う。かく言う俺もこの2つ以外の選択肢を選ぶ可能性は、ほぼない。

ちらりと振り返った斜め後ろの空席。長らくその机は、この教室の一番隅に追いやられたままとなっている。

みょうじ。今朝のあの目のみょうじが見据える未来は、この2つのうちの選択肢にあるのだろうか。








部活帰りに担任に会った。帰宅途中の駅のホームでのことだった。いつも通り小説を読もうとしていたところであったが、それは彼が俺の肩に手を置いたことによって簡単に阻止されてしまった。



「今、帰りか。柳」
「先生も、今お帰りですか」



俺の質問に頷いた50半ばの男性教諭の頭に、彼の苦悩の現れである白髪が数本見える。一方、彼の視線は俺の手元にあるようだった。



「遊馬優か、俺もいくつか読んだことがある」



俺は現国を担当している彼が嫌いではなかった。授業を分かりにくいと思ったことはないし、板書の文字はいつだって活字のように美しい。
そして今、遊馬優の名を彼の口から聞いたことで、単純だがより親近感を抱いた。

俺は小説を鞄にしまいながら言う。



「先生と帰りにこうして会うのは初めてですね」
「そうだな。実は今から、みょうじの家庭訪問だ」
「家庭訪問?」
「知っての通り、あの子はもう4月の末に来たきりだろう。内部進学をすると言っても、そろそろ内申に響く。外部受験するなら尚更、な」



電車が滑り込む音とともに彼が薄く笑ってそう言ったことで、今日配られた進路希望票のことを思い出すことが出来た。
彼はみょうじの家に、こうしてよく訪問するのだろうか。だとすれば、担任とは言え律儀な人だ。今時、電話やファックスでも済みそうなことなのに。

それよりも俺は、みょうじの名前を聞いた途端、自分の好奇心が溢れだすような感覚を覚えた。こんなに律儀なら、みょうじが学校に来ない理由も、俺にあの目を向けた理由も知りうるかもしれない。空調の効いた車内に乗り込んでから、抑えきれない疑問を放った。



「なぜみょうじは学校に」



しかし、担任は困ったように眉を下げる。発車とともに、つり革が大きく揺れ動いた。



「…こうして家庭訪問を何度もしているが、情けない事にみょうじが何を悩んでいるのか分からない。会ってくれたことさえない。いつもインターフォンの受話器を取る音しかしないし、一方的な会話しか出来ないんだ。…なあ、柳。みょうじはクラスでいじめられたりしていなかったか?」
「…俺が見たところでは、なにも」
「そうか」



そう言ったきり、俺たちは黙った。

来てくれた人に会いもしないと言うのは、よっぽどなのだろうと思った。一方的な会話しか繰り広げられないというその状況も、俺にみょうじが異質であるという印象を植え付ける。

俺は彼に今朝のことを言うか迷ったが、なんとなく辞めておいた。会わないくせに出歩いていると告げ口することは、彼の中のみょうじの心象を悪くすると察したからだ。そして、好奇心旺盛な俺は、とある提案を電車に揺られながら思いつく。



「先生」
「ん、なんだ」
「俺がみょうじの家に訪ねてみてもいいですか」
「…」
「…一度、彼女と話してみたい」



たとえそれが、一方的でもいいから。

彼は優しく笑って俺の背中を軽く叩いた。そして一言だけ俺に言う。



「次、降りるぞ」

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