神様の部屋 | ナノ
1、
小説とは不思議だ。読み終えた後、あるいは最中にさえ、自分が本の中の人物である感覚に陥ることが少なくない。
時には主人公の感情に深く共感し、あたかも自分がその人であるような錯覚に嵌る。また時には、何も関係がないものの、確かに物語を構成している一要員である時もある。
ただ、確かに言えることは現実世界では俺はただの面白みもない学生でしかないのに、小説に触れるたびにその事を深く忘れてしまうのだった。
俺はそのふわりとした不思議な感覚のまま、静かに本を閉じた。そして、驚くほど速いスピードで流れてゆく景色に目を凝らす。
つり革が揺れて、視界にちらついたのが不快だ。
あの主人公の男なら、この景色をどのように感じるだろうか。何もかもを絶望と捉えるくらいだ。
きっとこの日差しを見ても嫌悪しか出来ないのだろう。照りつける太陽が満員の車内を縫って俺まで届き、思わず目が眩んでしまう。
電車は俺が降りる駅に向けて、スピードを上げているようだ。
俺は先程まで読んでいた小説の最期をぼんやりと思い出していた。己の生の意味を紙屑とし、縄に首をかけて死んだ男のことを。
彼はどこまでも根暗で、どうしようもない男であったが、彼の最期は俺に後味の悪さを感じさせない。むしろ、清々しくもあったように思う。やっと召された天で、彼は神様に会うのだろう。
俺がそう感じたのは、この作者のなせる技によるものが大きいと思う。
それまで見ていた、窓の向こうのリアルしかない世界。つまり、太陽が照りつけ、通勤通学の人の群れや車の流れしかない世界から目を離し、左手に持ったままであった本の背表紙に目を向けた。
"神様の部屋 遊馬優"
満員なそこでは文庫の白い背が映えて見えた。
遊馬優という作家が、俺は好きだった。と、過去形にしてしまうのは早いかもしれない。だが、彼(彼女かもしれないが)は今年の初めから雑誌で連載していた小説も投げ出し、優秀な賞も受け取るのも蹴り、果ては自分で出すと公言していた小説まで辞めると宣言し、たちまち所在不明の身になった。
俺は彼の純粋なファンであったから、週刊誌やワイドショーで言われるような彼に関する下世話なニュースは純粋にショックだった。
夜逃げ説や自殺説、はたまた名前を変えて小説界に生きているというニュースは、視聴者の格好の餌だったわけだ。
乗り換えの駅のホームで電車を待っている間、あとがきの後ろに付いている彼の出した小説の一覧を眺めていた。どの本も余すところなく読んでおり、内容もすべて鮮明に思い出せる。
ただ、一番はこの『神様の部屋』だ。それは譲れない。これを超える作品を期待していたのに、一体、今、彼はどこに居るのだろうか。
ふと前を見ると、向こうのホームで、どこかで見た事あるような女がこっちを見ていた。
俺に気付いて慌てて伏せた目が、知り合いである事を物語る。だが、誰であったか思い出す事が出来ない。
彼女は目を伏せたまま、反対側の下りの車線で電車を待っていた。白いシャツに、緑のワークパンツは相当着ているのかくたびれて見える。
俺は彼女から視線が外せなくなった。まるで、小説の中の登場人物のように見えたのだ。その儚げで、脆い様が。
車掌のアナウンスとともに、遠くで電車が嘶く。やがて、彼女の姿は、下りの電車に阻まれ見えなくなるだろう。なんとなく、惜しい気がした。何も行動も出来ない自分を恥じるような気持ちになる。
だが、俺がそう思った事が通じたのか、電車と重なる寸前に彼女はこちらを見た。
強い目線で、息が止まりそうなほど鋭い、目。
今まで俯いていた様子は儚くて繊細のようだったのに、どうしてかそのときは、確かに俺を睨む視線を送ったのだ。その強い視線で、俺は思い出す事が出来た。
彼女がみょうじなまえという俺のクラスメイトで、もう半年も学校に来ていない不登校生だということを。
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