月曜日


自分には感情がいくつか欠落している、と昔から思っていた。何を見ても、何を聞いても、何を言われても、何を食べても、特に何も感じない。怒りも、悲しみも、喜びも、何もない。


『私は生まれてきたときに泣いたの?そうだとしたら、何を思って泣いたの?』


そのうちに、その問いの答えを正確に知っている彼女は居なくなった。特に悲しくなかった。

そうしたら、また別の疑問が生まれた。



『私は本当に"彼女"から生まれたのだろうか』






1、


山手線に乗って祖母の病院まで行く間、私はよく音楽を聞いていた。その音の意味や理由は、私に何も与えない。ただ、私の耳から鼓膜を通り、脳まで届く暇つぶし。早送りも、リピートも、歌詞も。

ただ一曲だけ、大切な曲がある。私は山手線に乗っている間中、ずっとこの曲を繰り返すのだ。




「いつもありがとうね、なまえちゃん」


祖母は癌だ。それも先の長くない。
医者がいつか言っていた余命は過ぎていたが、日に日に元気のなくなっていく祖母でなんとなく"それ"が近いのだと悟っていた。
事務的に花瓶の水を変える私に、彼女はしわを作りながらいつも感謝を言葉にする。私はその笑顔にただ頷いて新しく持ってきた花を生け、前に生けていた花を捨てた。




下りの山手線で、また同じ曲を繰り返す。この曲だけ擦り切れるほど聞いている。祖母が贈ってくれたお金で買ったこの小さな電子機器のおかげで、実際に擦り切れてしまう恐れはないのだけど。

窓から入る夕焼けが、私の目を細めさせた。
もしあの燃えるような太陽に愛されれば、六千度の星の体温でこの無感動な心も氷のように溶けるだろうか。何かを感じることができれば、世界は変わるのだろうか。


最寄り駅に着くまで、後この曲を3回と1分23秒。その間、少し眠ろう。月曜日は人が多くて気が滅入る。


私は隣の手すりに頭を預けて、ゆっくりと目を閉じた。









隣の部屋から物音がするのに気がついたのはちょうど先週の月曜日だった。
今まで空き部屋だったはずなのにちょくちょく賑やかな音が鳴るようになって、でも特に何も気にならなかった。壁に触れるとその僅かな振動に、私の部屋とほぼ同じの小さな隣の部屋に人が生きているんだと思った。



「標本みたい」



9階建ての、わずか81部屋弱にそれぞれの四角く区切られた人生は、虫の標本のように思える。

私はサナギだろう。蝶にもなれず、羽根も生えず。ここから飛ぶことのできない針に縛られた標本に、私はぴったりだと思う。


聞きなれない音が寝室から鳴り出した。電話の着信音のような音だ。

私のものではないその音に疑問を抱きつつ、急いで寝室に向かうと、私のトートバックに知らない携帯電話が入っていた。私のものよりは遥かに先進的のような、小さな電話だった。

画面をおそるおそる開くと、「宍戸さん」と表示されている。私は、何も考えずとっさにボタンを押す。

赤い、電源ボタン。


静かになった電話に胸をなでおろす。一昨日テレビで見た、詐欺だったらどうしよう。
そうこう考えているうちに、電話はもう一度声をあげた。さっきの名前だった。



「…はい」
『あ、もしもし。鳳と言う者ですが』



電話には『宍戸』ではなく、『鳳』を名乗る男の人が出た。



『携帯が見当たらなくて、部屋のどこかにあるのかなと思って先輩の携帯から電話してるんですけど…』
「はい」
『拾ってくれてありがとうございます。あー…どうしよう。差支えなければそちらに取りに行きたいんですが…今、どちらにいらっしゃいますか』



彼は相当困った様子で話す。生憎私は拾ったわけではないが、そもそもこの電話はどこで私のカバンに入ったのだろう。病院で人はあまり電話は出さないし、電車の中だろうか。男の人はよくズボンの後ろのポケットに入れたりするし、なかなか落としてもすぐ気がつかないのかもしれない、と推察する。



「…今は家です」
『じゃあ、家まで伺うのは流石に遅いし迷惑だと思うので、最寄りの駅を教えてください。取りに行かせてください』



最寄り駅はS駅。
だけど、知らない人に教えるのをためらう。困っているのだと思う。それはわかるのだが、一昨日の番組が頭をよぎった。

そうだ、祖母の病院の最寄り駅にしよう。
私は彼への不信感から最寄り駅をとっさにI駅にすり替えた。



『I駅…じゃあ、帰りだ…。今日か明日なんですけど時間の都合、大丈夫ですか?』
「明日の夜だったら何時でも…」
『じゃあ、9時ごろI駅の改札口で待ってます』
「わかりました」



『それじゃあ』といって彼は電話を切った。今日は感謝の言葉を2度も言われてしまった。




そう言えば、彼の情報は名前しか知らないけど大丈夫なのだろうか。


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