飛廉 | ナノ



次の日、突然さくらは姿を消した。いつも食事していたテーブルの上に置手紙を残して。



『耳鼻科行きたいけど、保険書忘れたから取ってくるね』



そんな帰る金、アイツ持ってんのか?とか、親と住んでたんじゃなかったのか?とか、家出に保険書って一応持っていくだろ?とか、疑問はいっぱいあったが、俺はアイツがいつかケロっと帰ってくるような気がしてならなかった。
置手紙もこんな質素だし。『プリン買うの忘れたから、コンビニ行ってくる』みたいなノリだし。


でも、何週間たっても、何カ月たっても、さくらは帰って来なかった。よくあるドラマなんかで言うと『あれが彼女との最後だった』とかいうフラグなんだろう。
それでも俺は、特に気にしないで生活をしていた。家のルール表や、さくらの忘れ物のせいで信じることは容易いことじゃなかったが、もうすぐ帰ってくるんだろうと信じることを諦めたくなかった。










本屋に寄った。あいつが居なくなってから、1年くらい経っていた。

いつもは目が行かないのに、本屋の横にある桜の木が気になった。まだ満開ではなかったが、そうなると綺麗だろう。

コンビニに寄って緑の買い物かごにいつものようにプリンを入れる。いつ帰ってきてもいいようにストックしてある自分が気持ち悪い。



「ありがとうございましたー」



コンビニの袋を腕にひっかけて、パーカーのポケットに手を突っ込む。すぐに右に曲がる。

いつもの日常。あの時と同じ。ただ、この通り道にとうとう自治会が痴漢注意の看板を最近立てたことが、違うだけで。



「あそこのホテルさー、設備すごくいいんだよ」



角を曲がってすぐ、そんな声が聞こえた。確かあの日もこんな感じだった。



「始発で帰ってもいいしー、よかったらお金も上乗せするよ?」



電柱のせいで女の方は見えなかったが、男の方はしつこく迫っているようだ。
なれないことをすると、ろくなことが起きないのは知ってたが、気分が悪かったので助けに入ることにする。




「それ、俺の連れなんですけど」












マンションのエレベーターのボタンを押した。

助けられた女はさくらではなく、ただOLらしかった。女は俺に深く頭を下げると、後日お礼がしたいからと番号を教えるように言われたが、断った。そんなために助けたわけじゃないし、なによりその女はさくらじゃなかった。

せめて、俺がさくらに番号でも教えておけばよかったのに。アイツはケータイすら解約して、持っていなかった。


部屋の鍵を開けて廊下の電気をつける。靴を脱いで、リビングに入ったとき、その異変に気がついた。



ほのかに香る料理のにおいと、ソファの前で寝息を立てる死体。



思わず笑ってしまった。さくららしすぎて。
俺はさくらをもう一度ソファの上に乗せた。その手にはきっちりと保険証が握られている。俺には彼女が勝ち取った、自由の証に見えた。



「おかえり、さくら」


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