飛廉 | ナノ




いつも家には誰も居なかった。

お父さんの存在は生まれた時から知らないし、お母さんは仕事でいつも忙しそうだった。
彼女は家に居るとき、私と話をしてくれなかった。というより、興味がなかったに近いのだと思う。嫌われていることは、幼いながらわかってたけれど、それを肯定すると、自分の存在を自分で否定している気がした。

機嫌が悪い時に殴られたり、タバコの火を押しつけられたりした。馬鹿な私はそれが愛情だと思っていた。むしろ、そんな彼女を可哀想に思っていたのかもしれない。


彼女はよく言った。
『お前の顔なんか見たくない』と。少ししてから、わかった。どうやら私は父親似らしかった。


家には男の人がよく来て、その人が居る時は家に居ないように言われた。家に居たら居たで、その男の人に嫌なことをされた。だから、決まって夜中は辺りをうろうろしながら、寝ない日々を続けた。



やがて、私は何もかもに興味がなくなった。そのことや、つけられた傷を学校でいじめられたけど、まして何も思わなくなっていった。
私は生まれつきそういう人間なんだと思いこむことで、愛されること、慕われること、すべてをあきらめようとした。



自立ができるようになってからは、お母さんの居ない間に自分ですべてを決めて、勝手に一人で生活し始めた。その頃になると、もう暴力が愛情ではないとわかっていた。
交通に不便だったけど、その分安くて家具付きの家だった。


初めての自由だった。バイトも食事も洋服も、自分の好きなように決められた。浅い傷は癒えていった。

私は、その生活に初めて幸せを覚えた。私はあきらめたものを取り戻そうとした。





でも、あの日。あの夢を見た。

彼女の首をきつく締めすぎて、喉が跳ねた。嫌な気分がした。左手は爪が食い込むほど堅く握っていた。


インターフォンの音で、ドアスコープに近づく。ドアの向こうに知ってる人が居た。お母さんだった。

そのときドアの向こうが現実で、こちらが妄想のような錯覚さえ感じた。


もう終わったんだ。行き止まり。


ドアを開けてからはあまり覚えてない。ただ、耳鳴りが止まなかった。





それから恐怖と同じくらい幸せが怖かった。自由を味わっても待っているのは地獄だけ。耳鳴りがする。

若と生活し始めて、楽しかったのに。私はどこかでそれを失うのが怖かった。
人がすべて私に危害を加えるわけではないのに、わかってるのに、私は全部が怖くて全部を否定した。若も、もしかしたらと思う自分が嫌だった。



言葉がつらつらと出た。今まで誰にも言えなかった言葉が。私の支離滅裂な話を若はずっと黙ったまま聞いてくれていた。



「ここまで逃げてきたのは、お金に困って私に売春させようとしたから。言いなりになるより、バイトで貯めたお金で遠くまで逃げて同じようなことをして稼いだ方がマシだと思ったから」
「…」
「それでね。昨日、若が帰るまで気晴らしに散歩してたら気が付いたんだけど…」
「なんだ?」

「私、左耳が…あんまり聞こえてないみたい」



ゆっくりと左耳に手を当てる。それはここ最近で感じていた変化だった。

気がついたのは、散歩中で車にクラクションを鳴らされた時。それまで確実に聞こえていた車のエンジン音が聞こえず、危うく轢かれるところだった。
四六時中何かが詰まっているような、そんな、感じ。



「なんかね、怖いよ…。右耳も聞こえなくなったら、若の声も、何も…。あんなに昨日も変な話、朝ご飯食べながらしてたのに…できなくなっちゃう…。自分の声だってわからなくなる!私は…!わた、し…」

「もういい」



泣きそうになりながら、それでも泣くまいとする私に若は諭す。左手を握って。



「もう、わかった」



その一言で私は楽になった。今までの肩の荷が下りたんだと思う。絶対に話しをするとき泣かないと決めていたのに、ポロポロと面白いほど簡単に落ちた。



「お前は偉いよな。そんな昼ドラみたいなことあっても、自分でここまで来れたんだろ」
「…」
「さくら、辛かったな。耳のことも、親のことも、今は関係ない。お前はもう自由なんだよ。…だって」



左手をぐいと寄せられて、私は若に寄りかかる。



「初めて会った時、お前は俺に言ったよな。『私を探しに来たんですか?』って」



右耳元で彼は言う。私と出会った最初のときのこと。




「俺はさくらを探してた」




格好つけちゃって、若のくせに。



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