飛廉 | ナノ



あれから結構経ち、私はすっかり専業主婦が板についた。

といっても、毎日掃除して洗濯して炊事して家の主を待つというのが主な仕事で、決して『いってきますのチュー』とか『ただいまのチュー』とか、そんなのはない。



「ルールの2番を実行する気ねーだろ」
「ふふふ」
「ふふふ、じゃない!この便器!」
「あ。今、便器っつったな?コノヤロー、表出ろ」



ただあの日、手を繋いで帰っただけで、それ以外の進展はないのだ。

ここだけの話、私は若にちょっとそういう気持ちもある。
が、当の本人のことは知らん。興味ない。私が抱くこの気持ちは大して重要じゃない。一緒に居て、楽しいから、それ以外はどうでもいいんだ。


朝食は下品な話で終了し、若を玄関まで見送る。



「今日は何時に帰ってくるんだよ、和式」
「…夕飯はいらねえよ」
「せいぜい頑張るんだな、和式」
「もういいだろ、便器の話は」



違った、まだ終了してなかった。





若がいない若の部屋は静かすぎて耳鳴りが強くなる。前まで1人で居ることに苦痛は覚えなかったのに、今はそうじゃない。というか若と居たいんだと本能が言ってる気がする。

気晴らしに若の後を追うように、私はドアを開けた。












「…」
「お前…どこ行ってたんだ?」
「そのへん」
「そのへんって…、」



出掛けてうろうろしていたら、初めて若より帰りが遅くなってしまった。そのためか、若は不思議そうな顔をしている。
正直今日は疲れた。徘徊している途中で気がついた嫌なこともあったし。


もう寝たい。明日になったら、何もなかったように回復しているに違いない。そうじゃないと、怖い。



「熱でもあるのか?」
「えっ?…ああ、ないよ」
「ちょっと来いよ」
「っ!…触らないで!」


私は掴まれた腕をとっさに払ってしまった。気まずい沈黙が包む。また耳鳴りがした。



「…どうした…?」
「な、なんでも…」
「朝、あんなに元気だっただろ。話してみろよ」
「…疲れた…今日は寝たい」



彼にそれだけ告げた。私はずるい。若のことが間違いなく好きなのに、いつも逃げるんだ。

過去と向き合うことが嫌で。過去、過去、過去。眠って忘れることができればいいのに。私の頭は、いつも都合良く働いてくれないんだ。



「…わかった」



彼はそれだけ言うと、テレビをつけていつも通り無口になった。








『おかあさん!さくらね、おえかきじょーずなんだよ!せんせーにほめてもらったの!』


画用紙いっぱいに描いた桜の木を見せる。先生に褒めてもらったんだ。綺麗な絵だね、って。
お母さんと見たんだ。いつだったかも、お母さんと手を繋いでたのかも忘れちゃったけど、確かに2人で見たんだ。

ただ頭を撫でて、笑ってくれるだけでよかった。ただそれだけしか望んでいなかった。


なのに。



『うるさい子ね、そんな子が描く絵を褒めるなんてどうかしてるわ』


ちぎられた画用紙の桜吹雪の中で、私が泣いている。また、この夢だ。これは夢。

夢?

彼女の前に私が立ってる。泣きながら母親を求める彼女に、嫌気がさす。だから嫌われるんだ。



「お前なんか」



あなたが生きているから、今の私が苦しいんだ。



「お前なんか…!」



殴られても文句を言わない。ただ泣くだけ。そんなあなたに、お母さんも苦しく思ったんだ。
だから殴るんだ。みんな、私を。あなたを。そんなに辛いなら。



「消してやる…」



泣きわめく彼女の首を絞めた。なんだかそれは、ひどく懐かしかった。












目が覚めると最近見慣れてきた天井があった。
あの夢を見たあと、私は決まって虚無感に襲われる。何もしたくない。本当は何もできないんじゃないだろうか。

頬を流れた一筋だけの涙を拭こうと手を少し動かす。するとそのとき、左手の異変に気がついた。

ゆっくりと左手に目をやる。


夢の中で彼女の首を絞めたこの手を、眠っている若が、今しっかりと繋いでいる。


どうしてかわからない。人に今までこうされたことがない私に、彼を理解することはできない。ただ暖かさが私を肯定している気がする。そうしているうちに思いだした。

あのとき、私は手を繋いで桜を見たんだ。お母さんと。

彼が起きたら言おう。私のことを話そう。それまでこの暖かさに浸っても許してもらえるだろうか。



[back]
[top]