飛廉 | ナノ
「起きろ」
「んぬ」
「何なんだ、その声は」
昨夜、プリンの話をひとしきりしたあと、私は若に家の周りがわからないと伝えた。
すると、彼はすぐさま家の周りの案内を提案し、私の『いつ?』という質問には、『明日』というすごくアグレッシブな回答をしてくれた。
その申し出は実にありがたい。だけど、今はどうしても起きたくないです。
「…ていうか、お前寝相悪いな…」
「うぬぬ」
「もっと色っぽい声出ないのか?」
「…あっはーん、いやーん、ばかーん」
「お前。馬鹿だと思っていたが、本当に馬鹿だったんだな」
その馬鹿を拾ったのは、まぎれもなくあなたですよ、若さん。
私は若とのやり取りのせいで活性化した脳を、改めてリフレッシュするため、ううんっと背伸びをして、あくびをひとつ。
彼は私の部屋のカーテンを開けて、空気の入れ替えをする。うん、今日も几帳面ですね。
几帳面ではない私は、その辺にほっぽっていたブラをつけようと手を伸ばす。すると、若は顔を真っ赤にして出て行った。
「見てもいいのに、減るもんじゃないし」
私は、あんまり自尊心がないのかもしれない。
◇
「ここスーパーで、隣が本屋だ」
「はーい」
あくびと同じような返事に、いささか若は苛立っているようだったがお構いなく。
本屋の傍の桜の木を横目に見てほんのりと心が暖かくなるのがわかった。桜は好きだ。すぐ散ってしまうけど。
「あ」
「なんだ」
「あのファミレスですよね!暗くて道覚えてなかったんですけど!230円でジュース24時間飲み放題の」
「どんな覚え方してるんだ、お前は」
旗が揺れているのが見えてテンションが上がる。春の苺パフェ。すごくそそられるんですが!
居候の身分でパフェをねだるのは贅沢すぎるかな。でも、案外若も食べたかったりして。
私は絶対そうだと勝手に決めつけて、彼にカマをかけてみることにした。
「パフェかあ!いいですねえ!」
「働け」
「やっぱり…。言ってみただけです」
「やっぱりって何だ、やっぱりって」
やっぱり、は『やっぱり駄目だった』のやっぱりですよ。
心の中で呟くと、彼は私に1つ提案する。
「あそこで働けばいいんじゃないか?」
「ナイスアイディア!今から履歴書出してきます!」
「やっぱり」
「…なんですか」
「やっぱり、お前馬鹿」
若は意地悪だ。
◇
さっき言ったことは訂正しよう。
やっぱり、若は優しい。ジェントルマン。紳士。素晴らしい。最高。格好いい。大人。寛大。マーベラス。
「俺は訂正しない。何度でも言う。お前は馬鹿だ」
「この際、パフェが食べれればなんでもいいです。馬鹿でも便器でも好きに呼んでください」
目の前の特大のパフェに心を奪われながら、私は言う。それに比べ、控えめな小さいパフェを口に運ぶ若は若干恥ずかしそうに言った。
「お前、あんまりでかい声で便器とか言うなよ」
「でもやっぱり、便器は嫌だなあ…。まだ訂正できます?」
「ルールがあるから名前で呼ぶ。それに、仮にも女に俺が『便器』とか呼ぶわけないだろ」
「よかったー。便器って言われたらどうしようかと思った」
しかし、仮にも、という部分が引っかかるが聞き流すことにする。
一番てっぺんの苺を口に入れる。ちょっと酸っぱいがこれくらいが好きだ。
「その代わり、」
「はい。どの代わりですか?」
「パフェの奢りと、便器と呼ばない代わりにだ」
「はあ」
私の口の端についた生クリームを、紙ナプキンで拭いてくれた。私も感情があるんで、人の目とか気になるんですけど。
「こんな無茶な計画を行う前のことを話」
「無理です」
「…まだ言い終わってないだろ」
「でも、昔の話を聞きたいんでしょ?それはダメです」
若の性格上『なら、パフェを返せ』とか言いだしそうなので、言われる前にパフェを全部食べてしまおう。
私はスプーンの速度を速めた。若は続ける。
「理由くらい言え」
「女性に昔の話をする男の人はナンセンスですよ。あ、ごちそうさまでーす」
空になった容器と、そのスピードに彼は驚いているようだったが話は終わらない。
「言ってもらわないと困るんだがな」
それはもちろん正論だ、と思った。大方昨日、本当に自殺してしまったんじゃないかと心配だったんだろう。
でも、言いたくない。
「わかりました。話しましょう。付き合ってた人にフられてヤケになったんです」
「…」
「なんですか。びっくりしました?そんな理由かよー、みたいな?よくある話ですよねー。いや、私もびっくりです。人ってたった1人のせいでこーんなに物事どうでもよくなっちゃうんだー、的な」
「…嘘吐くな」
半ば呆れたように背もたれに背中を預ける彼に、私は焦った。反面、嘘だと見抜いてくれたことが少し嬉しかった。
そんなんじゃない。簡単でよくある話でもない。私は。本当は。
「…まあ、いい。食ったなら帰るぞ」
伝票を持って席を立つ彼に視線を向ける。本当に話せるときが来るような、そんな気がして泣きそうになった。
◇
「ねえ、若」
スーパーで買い物をして、元来た道を歩いていた。若はもともと、よく話す方ではないが、さっきのこともあり余計何も言わなかった。沈黙が気まずくなって、俯きがちに声をかける。
「寒いね」
会話はなんでも良かった。ただいつもの通り、破天荒な私ではいられなかった。
桜が咲いているのに、少し肌寒い。買いだめをしたスーパーの袋が重さで手に食い込むのが痛い。
「さくら、」
ふっと前を歩いていた若が振りかえる。私は、体を少し硬直させた。一瞬、怖いと思ってしまった。
相手は若なのに、怖い、と。
「ほら」
「え?」
「手」
「は?」
「…寒いんだろ、さっさとしろ」
2つの袋を1つの手に持ち替え、若は左手を差し出した。初めてだ。こんなこと。私はおずおずと右手を出すと、何も言わずに握った。暖かい。涙が出そう。
それでも私は、泣くわけにもいかず、また憎まれ口を叩いた。
「…手が暖かい人は…心が冷たいんですよ」
「…」
「私の手、冷たいでしょ。心は暖かいんですからね」
「…知ってる」
袋に入っているプリンが、若の心の暖かさを証明していた。
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