子の心親知らず
人の形とはなんとも不便なもので。
現し身となりやっと戦えると意気込んだはいいが、逸る気持ちに反して身体が思うように動かず、初陣は散々な結果となってしまった。
まるで全身を見えない力に押さえつけられているような感覚に戸惑ったものだ。
主から、それは『重力』というものだと教えられたのは数日前。
今は一日でも早くこの身体に慣れるようにと、日々を過ごしている。なんともどかしいことか。
それにくわえ、歌仙をさらに悩ませるものがもうひとつある。
「っ――?!!」
声にならないほどの悲鳴。
胸の奥が壊れたように速く、荒々しく鼓動を打ち、額から汗が吹き出た。
コレは『恐怖』。
「……」
一体、いつになればこの恐怖に慣れるのか。
そもそもそんなことがはたして可能なのか。
意図せず口を突いて零れたのは深いため息。手が自然と拳を握る。
「…はぁ」
歌仙は火照る身体を冷やそうと、横たえていた自身の身体を起こして部屋を抜け出した。
障子を開け、歌仙が先ず目にしたのは夜空に淡く光る月。
すべてのものが眠りに落ち、星の瞬きが聞こえてきそうなほどに静かな夜だ。
本来であれば美しく雅なはずの瞬間が今は不思議と恐ろしい。まったく、人の形とはなんと不便なことか。
再度ため息を吐いたあと、足が自然と名前の部屋へ向かったことに自分でも驚いた。
まるでそれが当たり前であるかのように。
「…主、お邪魔してもいいかな?」
明かりが灯る障子を前に声をかけると、ややあって中から「どうぞ」と落ち着いた声が返ってきた。
やっぱりまだ起きていたのか、という呆れと、拒絶されなかった、と安堵する自分がいる。
「そろそろ来るころだと思った」
障子を開くとそこには自分を見て困ったように笑う名前の姿。
もう何度も目にするその表情に、つられて自分も眉を下げ笑い返す。
彼女の部屋はこの本丸において一番特異な空間であった。
自室兼事務室。一言で表せばこの表現が正しい。
洋式家具が多く、可愛らしい装飾品の数々に彩られた女性らしいし室内。
しかし机の上には『パソコン』と呼ばれたカラクリといくつもの山を築いた書類が散乱し、寝具の上には書物が積みあがっている。
以前、この状態で普段はどこで寝ているのかと尋ねたところ、現在背をもたれている長椅子にそのまま寝てしまうことが多いと返された。
ここまでくるとむしろ『自室』として機能しているのかすらも疑わしいのだが、ここは間違いなく彼女の部屋だ。
「毎日こんな時間まで起きて大丈夫なのかい?」
「こんな時間、て…まだ22時だよ。現代だと寝るにはちょっと早すぎる」
「そうなのかい?」
相変わらず増え続ける書類を一瞥し、名前に通されるまま歌仙は彼女の向かいへ腰を下ろした。
「そういう歌仙こそ体調は大丈夫? …まだ、寝るのは『怖い』?」
「……」
自身の問いかけに対する答えと気遣いになぜか言葉が詰まる歌仙。
いく度となく繰り返された夜であるはずなのに、いざ言葉にされるとやはり恥かしくもあり…情けなくもある。
そう。歌仙を日々悩ませ、毎夜恐怖へと陥れるもの――…それは『睡眠』だ。
目を瞑れば深い闇へと沈むような感覚に襲われる。徐々に薄れていく意識中、手足から力が失われていく様は歌仙にとって恐怖以外のなにものでもない。
「仕方ないよ。赤ちゃんだって寝るのが怖くて夜泣きするし」
沈黙を肯定と取って名前は言葉を続けた。
それは歌仙が人の形となって初めて迎えた夜、恐怖に怯えた彼をあやすように彼女が言った言葉。
人間も赤子のころに夜泣きを繰り返しながら、睡眠に慣れていくのだという。
「僕は赤ん坊でなければ、泣いてもいないんだけどね」
「私にとっては『赤ちゃんの夜泣き』とかわんないよ」
苦笑いしながらも反論してみたが、きっと彼女には自分が強がっているようにしか見えないのだろう。
笑みを浮かべて優しい眼差しを歌仙へ向ける名前。
ここまで言われてしまってはもう返す言葉もない。
「いいんだよ、泣いたって。赤ちゃんは泣くのが仕事だもん」
「いや、だから僕は――」
クスクスと聞こえてきた笑い声に、まだからかうつもりなのか、とため息混じりに顔を上げた歌仙は息を飲んだ。
名前の表情が、あまりにも優しかったから。
「……」
彼女は狡い。
普段はがさつで、淑やかさとはかけ離れた言動を繰り返すのに。こんな時ばかり優しく、儚げに笑う。
出会った時も、初めて言葉を交わした時もそうだ。
初めてだった。
こんなふうに、人間から優しい笑みを向けられたのは。
斬るための道具に優しく微笑む人間。
「なんなら『お母さん』が添い寝してあげようか?」
いつの間にか歌仙の目線に合わせて腰を折り、彼の目の前に立っていた名前。
直前に見た優しく儚げな笑みは消えていたものの、その眼差しはいまだ優しい色に染まっている。
「はは、遠慮しておくよ」
申し出をやんわり断ると、名前が「それは残念」と本気で落ち込むものだから、歌仙はつい笑ってしまった。