私を想って


ソーマが部屋を訪れると、上機嫌な名前が出迎えてくれた。

気分良さそうに顔をほころばせる彼女を、ソーマは訝しげに見詰める。

人当たりの良い彼女は大体いつもにこにこしているが、今日は普段の三割増しだ。

何か良いことでもあったのかと尋ねれば、彼女は見慣れない水差しを手に取った。

そして名前は何の臆面もなく答える。


「リンドウさんにもらったの。」

そう、やわらかく微笑んで。


…だから、イラついた。


まさか恋人の笑顔に苛立つ日が来るとは、ソーマ自身思いもしなかっただろう。


湧き上がる嫉妬の念。

実に些細なことだ。

自分でも情けないと思うくらいに。

それでも、わかっていても、抑えられなかった。


その笑顔が、あの男によってつくり出されたものだと考えたら……。


「…おい。」

「え、なに……んっ…!」


乱暴に壁に押し付け、噛み付くように唇を奪う。

何の言葉もなく、強引に。

さらにことを推し進めようとすれば、彼女は当然のごとく抵抗した。


その拍子だった。

側にあった棚にぶつかり、それが衝撃で揺れる。


そして。


「あ……。」

「……!」


ぐらりと傾くガラスの水差し。

バランスを失い、かかる力に従って、床へと落下する。


静かな室内に、やたら耳に残る大きな音を響かせ、それは砕け散った。




◆ ◆ ◆




「悩んでねぇで、とっとと謝りゃいいじゃねぇか。」


やれやれと肩をすくめ、リンドウはふぅとタバコの煙を吐き出した。

まるで目に見えるため息のように、その煙はもやもやと鬱陶しく視界を曇らせる。


惜しみない嫌悪感を込めて睨むも、奴には動じる気配すらない。

それにさえイライラさせられ、ソーマは募る苛立ちを発散するように舌打ちした。


もう結構長い付き合いだが、未だこの男の言動に感情をかき乱されるとは。

…そもそも、なぜこんな状況になっているのだろうか。


リンドウの横に立つ、同じく付き合いの長い彼女に視線を向けた。「…おい、サクヤ。なんでこいつが知ってるんだ。」

「話したからよ。」


しれっと事も無げに言ったサクヤの答えに、半ば項垂れる。

相談する相手を間違えた、と。

しかし他に誰をアテにすればよかったというのか。


任務に行く前、サクヤに名前と喧嘩したことについて話していた。

無論全てを伝えたわけではなく、水差しを割って彼女を怒らせてしまった、とだけ。

そして任務から帰ってきたら、2人揃って待ち構えていた、というわけだ。


“こういうこと”に最も長けていそうなのはリンドウだったが、この男にだけは言うまいとサクヤを頼ったはずだった。

しかし、まさか話して数時間と経たないうちに知れてしまうとは……、もはや怒る気にもなれない。

もっとも、口止めをしなかった自分にも落ち度がある手前、文句も言うに言えないのだが。


「まったく、相変わらずお前はガキだな。なんで素直に謝れないのかねぇ。」

「…うるせぇ。大体テメェが原因じゃねえか。」

「おいおい、なんで俺のせいになるんだ?」

「…………。」


思わず口走ってしまったその言葉は、あまりにも理不尽なものだった。

もちろん、それくらいソーマもわかっている。

しかしソーマにとっては、この男こそが“元凶”なのだ。


思い出す。

──「リンドウさんにもらったの。」

そう言って笑った名前を。

割ってしまったあの水差しは、リンドウが彼女に贈ったもの。

だから、その水差しのことで喧嘩しなければならない事実さえ、ソーマは気に入らなかった。


くだらない嫉妬をしたことを知られるのだけは避けたかったが、これでは自分から言ってしまったようなものだ。

察しの良いリンドウは気付いてしまっただろう。


「……本当にバカだな、お前は。」


彼は心底呆れたようにため息を吐いた。


「名前に理由を聞いてこい。どうして花瓶一つであんなに喜んだのか。」

「…あ? 花瓶? お前がやったのは水差しだろ。」

「そうだな。けど、名前が欲しがってたのは花瓶だ。」


──花瓶──

そのたった一つの単語が、ソーマに気付かせる。

思い出させる。つい先日のできごとを。



ほんの気まぐれだった。

消耗品の買い足しのために訪れたよろず屋で、たまたま目に付いた。


三色に彩られた小さな花。


それを見て、彼女の笑顔を思い出した。

動物も植物も愛でる性質だった彼女は、そういったものを見ては目を細めていたから。


ガラにもなく、贈りたいと思った。

喜んでくれるんじゃないかと、笑ってくれるんじゃないかと、そう思って。

ほとんど衝動で購入し、花束なんぞを作ってもらって、彼女のところへと足を向け……。

そして、半ば押し付けるように手渡した。

驚きつつも受け取った彼女は、本当に嬉しそうに笑ってくれて……。


彼女が花瓶を欲しがっていたのだとすれば、それは──……。


──あの花のため…?



「謝ってこい。」

「…………。」

リンドウに言われて動くのは癪だが、今回ばかりは認めるしかない。


「……悪い。」

ぼそりと一言だけ告げて、ソーマは踵を返した。


「ちょっと待って、ソーマ。」


しかしサクヤに呼び止められ、足を止める。

振り返り、何だと視線で問えば、タバコをふかすリンドウの横で、サクヤはにやりと笑んだ。


「手ぶらで行くつもり?」




◆ ◆ ◆




ソファの上に丸まるようにして座り、名前はため息を吐いた。

もう今日だけで一体何度吐いたかわからない。

幸せがどんどん遠ざかっているのだろうか…なんて考えて、さらに落ち込む。


ほんの数時間前のできごとを思い出し、シンクの横に目を向けた。

水を張ったコップの中で、縁に寄りかかるようにして頭を垂れる小さな花たち。

ずいぶん元気がなくなってきてしまった。

まるで今の自分の心境を表しているようだと、自嘲気味に笑う。



あのとき…突然やってきたソーマにいきなり花束を突き付けられたとき、すごく驚いた。

甘い言葉の一つでも添えればいいものを、ぶっきらぼうにも無言で寄越したものだから、雰囲気もへったくれもない。

その上、どうしてまた急にと、理由を尋ねてみても彼の答えは「別に」だけで。

相変わらず不器用な人だと苦笑したのを思い出す。

でも、人一倍照れ屋な彼が、顔を真っ赤にしながらも花を贈ってくれたことが、何よりその気持ちが、本当に嬉しかった。



……わかっていた。

決して悪気があったわけではないこと。

ソーマがささやかな嫉妬で感情的になってしまったことも。

でも…いや、だからこそ、かなしかった。

水差し一つで不安になってしまうほど自分は信用できなかったのだろうか、と。


膝に顔を埋める。


──ソーマ……。


心の中で彼の名前を呼んだ。

ここに来てほしいと期待したわけじゃない。

ただ彼をおもって。


だから、耳を疑った。


「…名前。」


部屋の扉越しに聞こえてきた低い声。

誰のものかなんて、考えるまでもない。


丸まったまま顔を上げ、扉を見やる。


「…いるんだろ。」


続いてかかった言葉は、「開けろ」という催促。

キーを知っているのだから、入れなくはないはずだ。

でも、例え鍵がかかってなくても、きっとソーマは勝手に入って来たりしないんだろう。


少し迷ってから、名前はソファから立ち上がった。

扉の前に立ち、大きく息を吸う。

意を決して扉を開けた、次の瞬間。

息を呑んだ。


バサッと音を立て、目の前に突き出された花束に、呆気にとられる。

視界を覆うのは、三色の花弁が美しくも愛らしい小さな花たち。


……“あのとき”と同じ。


お互い固まってしまい、妙な空気が流れる。


とりあえず、名前は所在なさげに揺れる目の前の花束を受け取った。

するとソーマが腕を伸ばしてきて、慌てて花を身体から離す。

引き寄せられ、抱きすくめられた。


「…悪かった。」


花束に次いでおくられた謝罪の言葉。

そのたった一言に、彼の精一杯の誠意が込められていることを、彼女は知っている。

受け入れるように、名前がソーマの背に腕を回した。

彼女の手にある花束が、居心地悪そうにガサリと音を立てる。


「…私も、ごめんなさい。それから、ありがとう。」

名前の方もそう告げれば、「あぁ」と一言だけ返ってきた。
甘い香りの移ったソーマに包まれ、さっきまでの暗い気持ちが嘘のように晴れていく。

彼がいてくれれば、逃げた幸せも容易く戻ってくるのだ。


ソーマの肩越しに、小さな花束を見詰める。

ふと浮かんだ疑問について尋ねてみた。


「ソーマ。この花、知ってる?」

「……知らねぇ。」

「うん。だろうね。パンジーだよ。」


ソーマのことだ。

特に考えがあってこの花を選んだわけではないのだろう。

当然、花言葉なんて知らないはずだ。


「…ねぇ、ソーマ。」


きゅっとソーマのコートを掴んで、肩に頬を寄せる。


「私はいつもあなたのことを想ってるよ。」

「な、に、言ってんだ、お前……。」


明らかに動揺した声のソーマに、名前はくすりと笑う。

ただ伝えたかっただけ。

そう返せば、ソーマがぎゅっと腕に力を込める。

彼がこれから何を言うのか、彼女にはもうわかっていた。



「…俺も、お前をいつも想ってる。」

「うん。…知ってるよ。」


──だって……



鮮やかに笑うパンジーの花が、その証拠。


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