終焉の蒼


――あなたに捧げる鎮魂歌――



 ぬけるような蒼の中に、真っ白な入道雲がもこもこと犇めいていた。眩い光を孕む空はどこか現実味がない。
 彼女は仰向けに横たわり、逆さになった異世界をぼんやりと眺めていた。
 何をするでもない。ただ無意味に無意識に呼吸を繰り返し、時折瞬きをし、生きているだけ。それは誰の意志でもなく、誰の願いでもない。
「いつまでそうしてるつもり」
 冷たい声が降りてきても、彼女は身動ぎ一つしなかった。
「そんなことしてたって、彼は」
「あたしはね」
 あまりに久々の発声に、不自然に擦れた音になった。一つ咳払いをすると、咽喉に刺すような痛みが走る。気にしない素振りでそのまま続けた。
「そんな偽善的な慰めが欲しいわけじゃないの。ただ、放っておいて」
 言葉に反して声に力はなく、哀願するような響きさえあった。
 硝子を一枚隔てた向こうでは、蝉の声が幾重にも重なり、耳障りな不協和音を奏でている。
「だって」
 薄ら寒い程の室内にいるはずなのに、額に汗が伝った気がして、彼女は眉を寄せた。
 大地を焦がすような太陽が、こちら側まで圧倒する。噎せ返る緑の匂いさえ再現して、彼女は息苦しさを覚えた。
 光はすべてに勝るのかもしれない。



「暗い海の中に潜ってさ、ふと上をみると光が溢れていて」
 彼は瞳をきらきらと輝かせながら、趣味であるスキューバダイビングの良さを切々と語った。
「ありきたりな言葉だけどさ、神秘的で本当に綺麗なんだよ。空と海と光が解け合って、こう……。ああ、見せてあげたいなあ」
 彼女は羨ましく思いながら、頬を膨らませてみせた。
「だって、あたし、泳げないもん」
 彼の話を聞くのが好きだった。心地好い声が彼女を包み、安心させてくれる。
「大丈夫大丈夫。今度行こうよ。絶対虜になるって」
 彼の好きな光が見たかった。
「何が大丈夫なんだか」
 けれど、その約束が果たされる日は、永遠に来ない。



 あの日、彼はどんな気持ちで、この蒼い空を見ていたのだろうか。あの日、あの瞬間、彼は何を想ったのだろう。
「ねえ。彼のいないこの世界に、なんの意味があるの」
 生きることをやめるのは難しい。けれど、生きることが終わるのはあまりにあっけない。
「あんたがそんなんじゃ、彼だって哀しむわ」
「嘘吐き。そんなこと、あんたにはわからないでしょ。彼は待ってるかもしれない。今も、あたしを」
「そんな」
「ヒトは勝手だから。幻想だけで納得した気になるのよ。でも、あたしは、いや。そんなの」
 彼女の瞳は昏い色をしていた。黒い瞳の奥で、何かが蠢く。
 記憶だけを頼りに脳内に構築される彼の姿、彼の声。それに如何程の意味があるだろう。そこに現われるのは、決して彼ではない。
「納得したふりしていつか忘れてしまう。彼の声も、彼の顔も、彼との思い出も。そんなの、いや。あたしは、いや」
 細く小さな声は悲痛に響いた。哀しみというよりも痛みに近いそれは、彼女自身を一層苦しめる。
 記憶は刻によって無常にも薄れ、やがて造られた幻影も消滅するのだ。
 そこには何もない。彼も。想い出も、希望も。何も、ない。

 冷たい声は、最早なかった。最後の良心と躊躇いは消え失せ、あとは待つだけ。
 全身で示した拒絶だった。他人へ。世界へ。失ってしまったものへ。
 彼女の乾いた唇から漏れた風は、ゆるやかに失われてゆく。
 ただ蝉の鳴き声だけが、蒼い世界に谺していた。






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