最悪の一日


 朝、目を覚ますと、起床予定時刻より一時間も過ぎていた。昨夜の酒のせいか、無意識に目覚まし時計を止めてしまったらしい。慌てて飛び起き、シャワーを浴びる。
 夢見もひどく悪かった。亡くなった父と母が出てきたのだ。私に何か伝えたいことでもあるのだろうか。残念ながら、私は彼らの命日も、墓の場所も知らないが。
 死んだ人間の魂がどうなるのかはわからない。ただ、心の中で生き続けるというのはこういったことなのかと思う。それ以上の感慨は、特にない。

 家を出ると、雨が降っていた。それも強風付き。こんな日に寝坊とは、私もほとほとついていない。
 一度戻り、適当なビニール傘を取ると、バス停に向かって走りだした。一応さしてはみるが、この風雨では、あまり役に立たない。靴も服もびしょ濡れだ。
 ああ。結構気に入っていたスーツだったのに。明日、クリーニングに出そう。
 どうにか間に合いそうなバスに乗り込むと、通勤ラッシュに巻き込まれ、これ以上は子供一人乗ることもできないだろうという満員具合だった。普段はこれが嫌で、駅まで歩いているというのに。
 バスの中は雨のせいで蒸し暑く、妙な臭いがした。もう少し奥へ、と促す運転手のアナウンスに、呼吸も困難な程の密着状態になる。ついでのように、誰かに足を踏まれた。

 仕事場に着くと、早速上司の文句を聞かされる。寝坊したのはもちろん私が悪いのだが、天気の悪さやトイレが汚いことまで私のせいにされては堪ったものではない。しかし内心はどうあれ、頭だけはきっちり何度も下げる。ようやく解放されると、仕事が山のように待っているわけだ。
 残業頼めるかい、と先輩が言う。これは質問ではない。命令だ。わかりました、と応えると、先輩は、今度奢るよ、と笑った。
 パーソナルコンピューター――今はパソコンやPCと言う方が普通か――を拙い指捌きで動かしていると、突然彼は意識を失ってしまった。つまり、フリーズ。こうなっては手も足も出ない。手近な人に復旧を頼むと、喫煙所へ向かう。女子社員の笑い声が聞こえたが、あれは今時パソコンも扱えない私への嘲笑だろうか。
 煙草の箱を取出し、あっと短く叫んだ。残りが一本しかない。私の煙草は珍しいのか、社内では手に入らないというのに。かといってこの雨の中、買いに出るのも面倒だ。仕方ない。今日はこれを最後の煙草にしよう。
 昼休みに、同僚が飯に誘ってきた。社食はいつもより混んでいる。皆、外に出るのは嫌なのだろう。
 最近、同僚は何かと恋愛相談を持ちかけてくる。どうも好意を持っている人がいるらしい。私は何度も、その気持ちを伝えたらいい、と言ったが、どうも一筋縄ではいかない相手のようだ。だが、私はまた同じことを繰り返す。伝えなければ何も進まないと。
 彼は温和で人当たりが良く、見た目も悪くない。誰だったか、芸能人に似ていると女子社員が言っていた。うまくいくといい。
 ぼんやりと考えていて、私はその言葉を聞き逃してしまった。いや、無意識に拒絶したのか。私は、なんだって、と聞き返した。聞き返すべきではなかったかもしれない。
 彼は少し機嫌が悪そうだった。だが、短く小さな声で言った。おまえだ、と。おまえが好きなんだ、と。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 冗談。そう訊くと、彼はますます不機嫌に眉を顰めた。冗談なんかで言うか。
 そうか。彼は私が好きで、私に恋愛話を頻繁に持ちかけてきていたのは、つまり、アプローチだったというわけか。
 最悪だ。いや、彼に好かれたことが、ではない。私にはその気はないと伝えなければならない立場に、突然立たされてしまったことが、だ。のんびり応援している場合ではない。
 あー、とか、うー、とか、意味のない呻き声が漏れる。そしてようやく、少し考えさせてほしい、と言って私は逃げた。
 私は彼が嫌いではない。嫌いではない人間を傷つけなければならないのはひどく不快だ。
 しかし、告白なんて何年ぶりだろうか。まるで学生時代に戻ったかのような、不思議な錯覚。良いことなのか悪いことなのかは、判断しかねるが。
 ともかく、上手い言葉を考えなくてはならない。

 残業を終え、ビルから出ると、雨は止んでいた。面倒なので、傘は置いて行こう。
 今日は最悪な一日だった。きっと星座占いでも最下位だったに違いない。別に占いを信じているわけではないが。
 帰路につき、家まであと少しのところで、煙草が切れていたことを思い出した。溜息を吐き、我が家を通り過ぎたところにある自動販売機を目指す。小銭を数えながら顔を上げると、売り切れと書かれたボタンが見えた。
 私は無言で、バス停二つ分先の自動販売機に向かった。もうすぐ十一時になってしまう。急がなくては。
 目当ての自動販売機が並ぶ一角が見えた。その瞬間、光の渦が私を包んだ。何も見えない。ドン、と鈍い音がしたと思ったら、左半身に激痛が走った。スローモーションのように、景色がぐるりと回る。
 痛い。痛い。なんだこれは。何が起こったのか。眩暈がする。音が聞こえない。熱い。痛い。どこか、ぶつけた、のか。私は、何を、した、の、だろう、か。

 夢見が悪くて。寝坊して。雨が降っていて。ラッシュに巻き込まれて。仕事が捗らなくて。煙草がきれていて。友人に思いも寄らぬことを言われて。

 ああ。今日もひどく夢見が悪い。






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