我思


――だから世界は――



 父が死んだ日。世界は、白かった。
 晴れ渡った空には雲一つなく、けれど喪服に包まれた皆の顔には暗雲が立ち籠めていた。母はひどくやつれ、レースの向こうに見える伏せた瞳は、もう二度と輝くことはないのではないかと思えた。

 母が死んだ日。世界は、黒かった。
 風と雨と雷が、嘆き哀しみながら恐ろしい程に猛り、母ばかりか残されたこの小さな家さえも、壊していくような気がした。



 すべてが悪い夢で、目が醒めたらママが、いつまで寝てる気なの、と呆れたようにカーテンを開けて、寝呆け眼で広間に行くと、寡黙なパパが、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいて、ほろ苦い大人の薫りに憧れて、おはよう、パパ、それちょっとちょうだい、なんて一口貰うとやっぱりそれは苦くて、いつかこれが美味しいと思う時がくるのだろうかと考える。
 そうだったらいい。そうに決まってる。



 最初に映ったのは、天井だった。独特の臭いを伴った風に、乳白色のカーテンがゆらゆらと揺れている。まるで蜃気楼のように。
 僕は、何故、こんなところで眠っていたのだろう。
 記憶が、混乱する。
 嫌な夢だった。
 そうだ。パパとママは。
 無意識に躰を起こそうとして、それが思いの外困難であることに気づいた。
 あれ。起きるって、こんなに大変だったっけ。
 立ち上がると、世界がぐらりと歪んだ。回る。回る。世界が回る。否、回っているのは僕。
 頭骨が鈍い音を立てると同時に、激痛が走った。世界も、妙な角度で動きを止める。
 痛い。
 両腕に力を入れて、どうにか上体を起こし、ベッドの脚に寄りかかる。強かに打ちつけた側頭部の痛みに、顔が歪んだ。きっと酷い表情をしているに違いない。薄青の寝衣が、だらしなく開けてしまっていた。
 馬鹿みたいだ。
 そういえば、僕の服。僕の服は、どこだろう。
 辺りを見回しても、それらしいものはない。ベッド脇にある荷物入れを開けたが、何も入ってなかった。
 ――あれ。何かおかしいな。なんだろう。
 僕は奇妙な違和感に気づき、動きを止める。
 あ。
 音だ。音が、しない。
 昼間だというのに――窓から見える空は快晴だ――、誰かの声も、物音もしない。聴覚がおかしいわけじゃない。僕が発する音は、ある。でも、外からは何も、聞こえない。
 僕は這うように扉へと近づき、それを滑らせた。廊下には誰もいない。何も聞こえない。立ち上がり、壁やベッドに掴まりながら、開け放たれたままの窓に向かう。やはり人の姿は見えなかった。車も、飛行機も、動物も。いない。誰も、いない。
 世界に、たった一人。僕だけ。まさか。
 パパ、ママ。
 声を出したつもりなのに、ひゅうひゅうと空気の漏れる音がする。
 誰か――誰か。
 走りだして、足が縺れて、派手に転ぶ。けれど、誰も起こしてはくれない。また走る。よろめく。倒れる。走る。
 廊下には灯りがついている。電気が通っている。誰かいる。誰かいるはずだ。僕をここに連れてきた誰かが。
 肺がひりひりと痛んだ。たいした動きをしたわけでもないのに、苦しいくらいに息があがる。一際大きな扉を開くと、そこは――闇だった。僕は咄嗟に振り向く。後方に広がるのは長く暗いトンネルだ。
 なんだ、これは。
 耳鳴りがする。心音が躰中に響く。眩暈と吐き気に、その場に崩れ落ちた。
「……あ」
 仰向いた方向――それが空なのか僕には確証がない――に、小さな光が見えた。そこから、何か音が聞こえる。音楽。声。歌。わからないけど、ひどく哀しい。やがてはらはらと花弁が降ってきた。夜闇に舞う雪のように。

「――ああ」

 これは、夢なんかじゃない。
 パパはいない。ママはいない。――そして、僕も。






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