もうすぐ。もうすぐだ。あともう二分であの人が来る。
一昨日から不安の気持ちのままエプロンから手鏡を取り出し、髪型を整え、棚に置いてあり既に揃えられた品に手を伸ばし位置をちょっと動かして整列させた。常に手を動かしてなければ落ち着かない。
後何秒だろうと、腕時計に目をやった瞬間、隣の倉庫の方で音がなった。そして数秒後解放状態の店の入口辺りから足音がした。なんというタイミングだ。いつもより十秒も速い。何か悪いことをしていたように肩を震わせてしまった。私は気づかなかった振りをして再び同じ品に手を伸ばした。まだ彼ではない可能性はある。しかしその可能性もすぐに彼特有の声と言い方により打ち消されることになる。


「よお」


私は首を途中まで捻り彼の姿をギリギリ視界に入れてからただお決まりの礼儀上の台詞のように「いらっしゃいませ」と呟くように言った。視線を戻しまた品を少し弄った。


「ふん。連れねえなぁ」


彼が近づいて来るのを感じ古い会計のテーブルカウンターの軋む音が聞こえ、なんとなく私の後ろに周り、テーブルカウンターに手でも付いているのがわかった。こんなときあれだけ嫌だったこの老舗のボロさは悪くもないとほんのちょっとだけ思うのだった。しかし目の前の部品はこの店にはあまりにもきれいすぎた。彼に背中を向けたままなのは具合が悪いので、くるり、と後ろを振り返り、案の定カウンターに手をついて薄着でラインが丸わかりの引き締まった腰をちょっとくねらせてる彼の眉間辺りを見上げた。彼との距離は意外と遠かった。


「…今日は何のようですか?」

「いつもの通りの点検と塗装を頼む」


親指をびしっと立てて外を指す(若干小指がゆるく上がっていたのは気のせいだと思いたい)。適当に返事をしといた。


「あーお時間かかりますがどうします?帰りますか?」

「今日もコーヒー飲んで待ってるぜ」

「……わかりました」


カウンターテーブルの内側に周り、彼を背に壁側のカウンターにある店用の小さな戸棚からカップを二つ取り出してそこで気づいた。初めて違和感そのものに。自分も飲むわけではないのに何故二つ取り出したのかと言えば彼の友達の分も無意識に考慮してのことだった。しかし今日その友達はいない。どうして気づかなかったのだろう。毎回一緒にきていてしかもあんなにヘンテコな髪型をしていたのに。自分で内心驚きつつも、コップを一個戻し、彼の友達の名前を思い出そうとしながらコーヒーメーカーに手を伸ばした。
赤みがかった茶髪の…確かアンドレだったかな。なかなかの好青年で性格がちょっぴり悪そうな印象があったかも。


「どうぞ」


たった一人分なのですぐにできたコーヒーの入ったカップを受け皿と一緒に渡した。彼と目を合わせることもなくそのまま外に置いてあるだろうDホイールの修理のために店を出た。その瞬間向い側の塀に沿って近所の子が数人の女友達とお洒落して楽しそうに話しながら歩いている様子が目に入ってきた。二人ぐらいが流行りの金髪に染めていて、私も染めてみようかな、と一瞬考えたけれどすぐに止めて見えなかった振りをして隣の倉庫に入った。Dホイールが一台中心に止められていて、一目で点検や塗装も必要がないことがわかるほど綺麗であった。近くによればすごく細かいところに彼の不満が見つかるだろうとは思うけれどすぐには近づかずちょっと眺めてみた。修理や点検を頼まれた大抵のDホイールにはそんなことはしないが彼のはいつも特別であった。完成、いや完璧という言葉が相応しい、それは彼の挑戦であるのだろうか、あるときから最良の状態で寄越されるようになった。創造から破壊の芸術が普及しつつあるこの現代で、まるで壊してくれとでもいうように。実際は恐らく自分達で作り上げたものを他者の視点で不備があるのか確かめてほしいのだろう。だから彼が必ず友達を連れて週に一度ここを訪れるのはそのためなんだ。これはつい最近帰結した考えだった。
近くまで寄って作業に入りだすとすぐにつけられたばかりであろう新品のパーツを見つけることができた。やっぱりね、と次の部分に目をやり点検を続けた。Dホイールが危険なのは周知だからこそ点検は一番慎重にやれという祖父の言葉をいつものように心の中で繰り返した。この点検のときはいつも祖父の言葉が重くのしかかってきた。そして最近は特にだ。
時間をかけ、厳重に点検した後、点検時に見つけた禿げ上がりを直す予定であったけれど、驚いたことに削れた部分は一つも見つからなかった。賭けてもいい、彼は絶対にここでDホイールを調整してから店に入ったんだ。なんて、倉庫にコレを置いてから店に来るまでの僅かな時間でそれができるはずがなかったけれど、そんなことが分かっていてもこの考えは決して消えることはなかった。
仕方なしにホイールを磨き、光沢剤を出っ張っている部分のみにつけた。ちょっと離れて見ると手を付ける前と変わりはなかった。やはり祖父ほどではなくても羨ましいほどの技術を彼は持っているのだ。そして話し方で分かるほどの頭脳も。とんだ才能だ、とため息をついて重い足取りで店に戻った。私の気配を感じてか、彼は左腕をカウンターテーブル上に置いている状態で振り返った。


「遅かったな。待ちくたびれたぜ」

「すみません」


本当は自分には速く感じられたけどそう言いかえすのはめんどくさかった。早く帰ってほしいと思っていたから。


「今日はじいさんいないのか?」

「ええ。他社を訪問しているので」


カウンターの内側にまわって背もたれのない一本脚の回転椅子に足を開いて座り両腿の間に両手をついて左右に椅子を回した。今更女として着飾ったり、店員として営業スマイルなんてボランティアみたいなものをする気にはなれなかった。


「老い先短いのによく働くな」


額面なくいうその言葉は私の脳髄に嫌と言うほど響く。
祖父はもういつ亡くなってしまってもおかしくはない。本人はそれを自覚しているようで早く後継ぎを、と二、三年も前から私にうるさかった。今まで育ててもらった感謝の気持ち、祖父孝行として、私が早く結婚して子供を生めば祖父は安心してくれるだろう。しかしそうは問屋が下ろさない。去年初めてできた彼氏と本気で結婚を考え、それを言うと、彼氏は手のひらを返すように急に別れ話をだしてきた。結局私は馬鹿だったのだ。それまでカモられていたことに気づかなかったのだ。気づいたときにはもう後の祭りで店の殆どの新しい部品をタダで渡していたのだった。この失敗を気に男性不信に陥った私だけれどごく最近目の前の彼、ジャンという生物学上の男は他の男とは違うように見るようにはなった。けれど彼の才能を考えればこんな老舗の後継者はもったいない。それにまず第一に私を好きになるはずはなかった。彼はあまりにも女性に興味がないように見えるのだ。致命的だ。


「店が安定するまで働きますよ、祖父は」

「ふん。こんな老舗じゃあいつ潰れてもおかしくはねぇしな」


思わず椅子から立ち上がってしまい、また座った。常連の客とも言えるこの男がそういうことを思っていたとは驚いたけれどそれ以上に裏切りと怒りを感じた。顔が熱い。イライラする。早く帰ってほしい。
彼は不思議そうな顔をしている。さっきの言葉は誰でも怒るだろうに。初めて気がついた。どうやらこの人には常識が欠如していたらしい。


「今日はアンドレさんはいないんですね」

「そういう日もある。それにしても今日は変だな、おまえ」


せっかくの話題転換も適当に返され、一番聞かれたくないものを聞かれる。


「すみません。不調で」

「まあせいぜい頑張りな。代金は置いていく」


チャリ、と音をたてて、カウンターにお金を置き彼は席を立つ。私は俯き彼の顔を見れなかった。


「ありがとうございました」


ぽつり、と呟いた営業上の言葉は聞こえたかはわからない。遠ざかっていく足音は突然止まり彼が振り返った気がした。ぱっ、と顔を上げると少し首を捻り床下目線の顔の角度で彼は口を開いた。


「俺ならこの店を繁盛できる」


意味も分からず呆然としている間に彼は行ってしまった。
何もかもが分からなすぎて釈然としなくて、大股で入口に赴き扉を閉めた。今日はもう閉店でいいや、とドアノブにかけてある板を反対にして、背中を向けて扉にもたれかかった。脱力。倦怠感。どうでもいい。なんか本当にどうでもいい。いつの間にかさっきの怒りは消えていた。彼ははっきりいう人なのだ。それも私にはない、羨ましい人格だ。そう思えばどうってことなかった。
店の時計の針の音が聞こえてきた。最近正確な時間とはちょっとズレてきた時計だ。たった数秒であったけれど私にしたらとても大きかった。腕時計を外して床に投げつけた。時計はもう私には必要はなくなったから。
ガチャ、と突然扉が開いた。外開きで、扉に背を預けていた私は支えを失い、倒れそうになる。しかし固いものが頭にぶつかり足は曲がってしまったけれど肩を支えられなんとか立っていられた。すぐ上を見上げようとするまえにヘルメットを被されたので、体を捻り振り返ると彼だった。


「え?え?」

「ちょっくら走るか」


事態が飲み込めなかった。私はただ受け身に、なされるがままで、気づいたときにはあのD・ホイールに跨って前の彼の腰に軽く腕を回し、前方からの冷たい風にさらされていた。


「どうだこのD・ホイールは?」

「すごいです。スピードのキレもいいし減速の対応が早いです」

「…俺は何よりも安全性を求めている。そして俺の安定も。このD・ホイールにはこれからも安全性が不可欠だ」

「はあ、ちゃんとこれからも点検は抜かりなくやりますよ?」

「ああ。おまえのところは信頼できる。だがおまえは相手の安定と信頼性を欲しくないのか」


言葉が詰まった。安定と信頼性、言い換えれば結婚とその相手の真の愛、それは今の私に必要なもので彼の言うとおり欲しかった。昔の彼氏と別れてから約半年以上、祖父に言われるまでもなくずっと私を愛してくれる人がいればと願っていた。
彼の言葉があまりにも的確で何も言えずにいると彼は「どうだ?」と追求してくる。


「…欲しいです」

「なら、お互いにちょうどよくはないか?」

「え?」


お互いにちょうどいい…? 不可解な言葉に、でも期待を抱きつつ、彼の言ったことを思い出した。『俺ならこの店を繁盛できる』そして今目の前でこの男は私と同じものを求めているという。俺なら、というのは仮想現実なんかじゃなく、もしかして、もしかして…。


「プロポーズ、ですか?」

「さあどうだか。おまえはどうなんだ?」

「私は…」


彼の才能に気づいてからだんだん諦めるようになった恋。これからいいのだろうか、この人を信用して実らせても?
答えは既にでていた。彼は前を向いたままだけれど、初めて彼自身を見るように顔を上げた。急に見えてきた夕暮れの世界。オレンジ色でいっぱいの空の下、一生忘れもしない告白をした。


「ジャンさんが好きです」






バランス
(急にスピードが上がったのをいいことに私はギュッと腕に力を込めた)

(どんなにスピードが速くても彼が止まるまで振り落とされはしなかった)



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