対極理論

 昼休み、がやつく教室の中にいてもこちらに近づいてくる喧しい足音は耳についた。

 来た……。
 このクラスの生徒は全員がそう思ったに違いない。

 もしかしたら「来やがった」の方が合っているかもしれない。
 そしてチラリと、しかし一斉に全員の視線が一人に集まった。
 が、見られている当の本人は素知らぬ顔でお弁当箱の蓋を開けて、昼食を続行する気満々だ。

 クラスメイトの期待と焦燥、願望ありとあらゆる種類の感情の籠もった視線を一心に纏っているのは、長いストレートの黒髪、真っ白な肌に切れ長の瞳、和装の似合いそうな日本美人である佐伯(さえき)だ。

 彼女は気づいていないのか、無視をしているのか鼻歌交じりに「いただきます」と手を合わせた。
 一緒に机を囲んでいる友達も、入口戸を気にしながらもそれに倣う。

「さーえきぃー!!」

 足音が途絶えると同時に、ダンッ! と最後の留めとばかりにドアを開け放つ音を立てて入ってきたのは、このクラスに馴染みのある、けれども本来ならば全くこのクラスには関係のないはずの男子生徒だった。

「悪霊退散んんんーーっ!!」

 少し長めの、ゆるやかに跳ねるダークブラウンの髪に、垂れ気味の目が甘く人懐っこく見せる顔をしたその生徒が教室に一歩入ってきた瞬間、おにぎりを箸で割っていた佐伯が、目にも留まらぬ早さで入口まで移動し、彼の顔を殴り飛ばした。

 先程までの笑顔はどこへやら、般若のように顔を歪ませている。

「ああん? 円(まどか)テメェどの面下げてここの敷居跨いでんだコラァ」

 潔癖やストイックさを醸し出す外見からは想像もつかない、ドスの利いた低い声だ。
 佐伯の声が廊下に響いた瞬間、嘘のように階全体が静まり返った。

 お構い為しに彼女は廊下の壁に激突した円の肩を足で踏みつけ、その場に縫い付ける。

 そして円も場にそぐわない、気の抜けるような笑みを向けるのだった。

「佐伯のケチの付けようのない右ストレートでへし曲がった顔で」
「口答えしてんな、潰すぞ。そして逝け」

 そう言って、肩から徐々に足をずらし下腹部までくると、そこで体重を掛けた。

「ちょちょ、佐伯さすがにそれはさ、女の子なんだからそんな、てか使い物にならなくなったらどう……ああでもおれ佐伯にならそういうプレイも喜ん――」

 ガッ
 下腹部に踵落し。

「ゲフッ」
「内臓を、に決まってんだろ糞変態……て、だからそのうっとりした顔やめろっていつも言ってんでしょうがー!」

 あらん限りの力で痛めつけたはずの円の恍惚の表情に、大慌てで佐伯は足を退ける。
 咄嗟に言葉遣いも普段通りに戻ってしまった。

「おれもいつも言ってるじゃん、佐伯になら踏まれても蹴られても、ついでに蝋を垂らされても女王様って呼ぶよ?」
「呼ぶな! 蝋なんて持ってないわっ。私はSMの趣味なんかない!」
「おれだって無いよ!」

 嘘つけ!
 それは佐伯だけでなく、この会話を聞いていた人全ての反論だ。

 だが円は心外だと口を尖らせた。

「佐伯がドSだから、それを受け入れようとしたら自然とこうなっただけで! 他の人にされるなんてご免だよ。佐伯限定、愛故に」
「私が変態で自分は巻き込まれただけみたいな言い方すんな! 消すわよ」

 腕を組み、睨みを利かせてくる佐伯だが円は怯まない。
 何でコイツはこんな平然としてるんだと溜め息を吐いた。

 よろめきながらも、あれだけの攻撃を受けたというのに円は立ち上がった。
 「無自覚って怖いねぇ」などと爆弾を投下するものだから、即座に回し蹴りを食らったのだけれど。

「ふふ、佐伯ってば着実に強くなっていってるよね。攻撃が重くなる度におれへの愛情も深くなっていってるんだと思うとさ……ゾクゾクする」
「キモッ!! まじでキモイ近寄んじゃない、この妄想変態幽霊がっ! 払い落とされたいか」

 スカートのポケットから素早く紙切れを数枚取り出し指に挟んだ。

 一枚一枚に墨で紋様が丁寧に描かれている呪札と呼ばれるもので、主に悪霊や怨霊を調伏する際に使用されるもの。
 とは出会った頃に佐伯に教わった知識だった。

「おれ悪霊違う! 悪くないよ、気持ちよくなりたいっていう己の欲望に忠実なだけで」
「お前は悪趣味なんだよ!」

 投げた術札が吸い付くように円に向かって飛んでいった。
 ぺたりぺたりと身体に張り付くと、そこから白い煙が立ち込める。

「ぎゃぁぁ! 熱い、焼ける……あ……でもちょっと気持ちいいかも?」
「やっぱただのドMなだけじぇねぇかーっ!」

 ツッコミ終えると円の身体はボンと音を立てて煙に包まれ、次の瞬間には何事も無かったかのように彼は平然と立っていた。

 きょろきょろと辺りを見渡し、状況が把握出来ていないようだ。

「あ、れ? もしかしてまた……?」
「あーうん。まただ」

 さっきまでとは違い、まだ幼さの残る表情と口調。そして声も高い。

「いつもいつも、兄ちゃんがごめんなさい」

 深く頭を下げる円は、確かに円なのだが佐伯が邪険にしていた人とは別人だ。

 円兄弟の兄は現在、植物状態として病院で入院している。
 その彼の魂だけが生霊として外へ抜け出ているのだ。
 そして奇しくも弟が憑依体質だったばっかりに、無断で身体を乗っ取られる日々が続いている。

 代々悪霊退治を生業としてきた佐伯が憑依している事を見抜いたときからもう早数ヶ月、こんな落としては憑き、落としては憑きのいたちごっこが続いてるというわけで。

「私の方こそ……憑かれてる時の怪我なんかが残らないとはいえ、いつもごめん」

 乗っ取られている間の記憶はなく、なにをされているか弟は知らない。
 まさか殴る蹴るの暴行を毎度受けているとは夢にも思っていないだろう。

 今は本体に戻っているはずの兄のせいとはいえ、佐伯は罪悪感を抱いてしまう。

「え、えーと、じゃあぼくご飯食べに……」
「あ、うん。気をつけて」

 何にだ。そう自身に返す。心の中で。
 彼が気をつけねばならぬのは血を分けた兄の魂くらいで、霊体の見えない彼にはどうしようも無い事だ。
 それに弟は、たまになら好きにさせてあげたいと兄を気遣っているらしいから、佐伯としても対処のしようが無い。

 まさか魂を消し去ってしまうわけにもいかず。

 こうして、数日に一回は教室に訪れて、とてつもなく残念な人間性を曝け出し、佐伯に迷惑を掛けまくる日々の連鎖は断ち切られる事なく、続いていくのだった。

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