::まどろみ ※No.7直後のお話です ああ、どうしよう 俐音は、黒塗りのドアの前で立ち尽くしていた。 ドアは軽く、大した抵抗もなく開くことを知っているのだが、今の心境では金属で出来た重厚な金庫の扉を前にしているように思える。 情緒不安定になっていた壱都を漸く寝かしつけ、やっと解放された俐音は部屋を出たのだが、大切な眼鏡を置いてきてしまった事に気付いて戻ってきたのだ。 だがどうしても部屋に入る勇気が持てないでいる。 きっと眠っているだろう壱都を起こしてしまいかねないし、最悪捕まって離してくれなくなる可能性だってある。 ここはもう、数日の睡眠不足のせいで壱都の眠りが深い事を願うしかない。 誰かについて来てもらえばよかった。 今更そんな考えが過ぎったが遅すぎる。彼らは俐音を放って特別棟でゆっくりしているに違いない。 それに、一緒に来てと言ったところで快く頷いてくれる連中でない事は俐音もよく知っている。 薄情な友人への腹立たしさが部屋に入ることへの緊張を上回れば躊躇いは消え、力一杯ノブを握った。 「失礼しまーす……」 握った時の勢いそのままに開けるのかと思われたが、スローモーションのようなゆっくりとした動作でドアを開けた。 当然、出てきた時と変わらず散らかり放題の床を、極力物を踏まないように気を付けながら奥に進んでゆく。 確か部屋の真ん中くらいに落ちているはず。 唯一フローリングが見えている場所に立ち二、三度左右を見渡せば、眼鏡は無造作にベッドの脇に転がっていた。 「ああぁ……」 画材や教科書の上でひっくり返っている姿は、何故か哀愁が漂っているように見える。 「すっかり存在を忘れててごめん」 掬うように持ち上げて、やんわりと両手で握り締めた。 無事救出できた安堵から、ほうと息を漏らす。 そして顔を少し上げると、目の前にこの部屋の主である壱都がいた。 壱都は俐音が入って来た事にも気付かずにまだ眠っている。 そういえば、壱都先輩の寝顔って初めて見るかも。 俐音は壱都と一緒にいるときに眠る事がたまにあるが、その逆は今まで一度も無かった。 珍しい光景を観察しようと顔を近づけた次の瞬間に突然視界が真っ暗になった。 「え、いた、いたいっ、痛い!」 「あれ……本物だ」 壱都の掠れた声がして、俐音の視界を奪っていた掌が少しだけ離れた。 どうやら起きた壱都に、顔面を鷲掴みにされていたらしい。 「夢かと思った」 「夢だったらアイアンクローかまされるんですか、私。やっぱり嫌われてるんですか、私!?」 こめかみを押さえながら唸る俐音に、壱都は寝転んだまま微笑む。 答える気はないようだ。 「なんでいるの?」 「メガネ忘れたんで取りに来たんです」 「そう。でもこれはっきり言って要らないよね。あってもなくても顔変わらないし」 起き上がった壱都は俐音から眼鏡を取り上げて自分でかける。 視力の良い壱都はいつも裸眼だから、黒の細いフレームの眼鏡はどこか浮いていた。 たった一つアイテムを増やしただけでいつもとは違って見えるけれど、壱都は壱都だ。 確かにそこは変化のしようが無い。なら俐音だって眼鏡をかけたところで女である事を隠せているわけではないという事か。 「し……知られざる新事実発覚……!」 今まで眼鏡に拘っていたのは実は無駄だったという事と、女だとバレていないのは別の所に要因が在るのだという事。 その別の要因というのは、つまり俐音が全く女の子らしくないからと言っていいだろう。 |