paranoia


「ねぇこれ何に見える?」

 ビーカーに入ったどぎついピンク色をした液体をゆるやかに振り、目の前にいる男はにこやかにそう言った。
 
 丹生 斑(はにゅう まだら)17歳。
 
 全国模試でも上位に名を連ねるほどの、この学校始まって以来の秀才で。
 化学部というちょっとお堅い部活に所属していて。
 自然のままに流れる黒髪と、細い黒のフレーム眼鏡がストイックだと女の子に持て囃されるくらいに人気があって。
 超がつくインドア派だけど、運動が出来ないわけでもない。
 
 好条件がつらつらと並べられる程度には斑は良い男だ。
 だがそれを帳消しにしてしまう難が彼にあるのだと知っているのは、ほんの一握りの人間だけ。
 
 斑とビーカーを交互に見やりながら、何と答えたものかと返事に困る早瀬 紫帆(はやせ しほ)。
 彼女も、いや、紫帆こそ斑の難に一番被害を被っている子だろう。
 
「……何ですか、まさか自作ですかその如何にもな色のいかがわしい液体」

 制服の上に白衣を羽織っているのが、彼の基本スタイル。
 着るんじゃなくてただ肩にかけているだけなんて、何か意味あるんだろうか。
 薬品がこぼれたってそれじゃあ何も防げないじゃないか。
 
「いかがわしい? これを見て紫帆はそういう連想したんだ? 君の妄想力の方がよっぽどいかがわしいよね。変態?」

 ふふ。犬猫でも愛でるように穏やかに目を細めながら、紡ぎだされる言葉は最早暴力と言って差し支えないレベルのものだ。

「いや、だからそんなの見たら誰だって」
「誰だって? 自分の意見がいつでも誰とでも同じだと思ってるわけ。それはつまり紫帆の言っている事は常に支持されるものだと。でも僕はこれを媚薬だなんてこれっぽっちも考えたりしなかったよ」
「言った! 今言った確実に! 私がそれ見て媚薬を彷彿とさせるって最初から計算づくだったって証明してみせた!!」
「そうだけど、何か問題?」

 問題だらけだろうが。特にあんたの性格とか。
 
 じとりと睨んでも斑は口元をニヤリと引き上げるだけ。
 
「特に何も考えずに薬品放り込んでたらさ、何かいい具合に着色しちゃったからね、紫帆にエロい単語言わせてみようかなぁと思い立ったが大安」
「私にとったら仏滅。ていうか吉日だから」

 本当にコイツ頭良いんだろうか。
 アホな思考と行動と、それに費やす労力すべてが無駄以外の何物でもない。
 非効率にして非生産的。
 
 つまり頭脳の能力とは無関係に斑は莫迦であると、紫帆は思う。
 
「いやいや大失敗だよ。本来ならこれ見て顔真っ赤にさせながら恥ずかしそうに媚薬って言う紫帆を、これ以上ないくらい弄って詰って散々泣かせてやろうと思ってたのに」
「黙れこの妄想変態ド鬼畜腹黒男。いっそその脳みそだけ取り出して人工知能にでもなったら、今は100%無駄になってる能力がちょっとは世の中に役立てられるんじゃないの」
「ネットワークを介して人様のプライバシーなんてクソ食らえな充実ライフが送れるね」
「駄目だ肉体を捨てたら法律の手が届かないのをいい事に、今以上に悪質になる気満々だ……!」

 どんな毒舌だって嫌味だって斑に掛かれば軽くいなされて終わってしまうのが悔しくてたまらない。
 一度たりとも紫帆が勝てた例なんてない。
 
「丹生がそんなだから何時まで経っても化学部に誰も入部してくれないんだよ」
「今のままで僕はいいんだって。ねぇそれよりこの液体飲んでみてよ。身体が熱くなってくるかも。ほら、火照るっていうの?」
「原材料が定かでないもの飲めるか! 何入れたのよ」
「ん? んー」

 最初は思い出すように目を伏せ、ちらりと薬品が並べられている棚を見て頬を赤らめ。
 グロテスクなほど鮮やかな液体の入ったビーカーを大事そうに握りしめながら
 
「いろいろ」

 はにかんだ笑みを浮かべる斑は、その外見だけならばそれはもう美しいものだけれど。
 
「リアクションの流れの意味が解らんわ!! 劇薬見て照れるって何!? え、その棚のやつ入れた!? そんなもん飲んだら火照るどころか喉焼けただれるだろうが!!」

 バァンッ!! とテーブルを叩いた。
 手がじんじん痺れと痛みを訴える。
 
 だが斑は知らん顔だ。
 
「人間っていうのは思い込みの生物だからね。これがただの水と着色料だけのものだったとしても、劇薬だったとしても、媚薬だと信じさえしていれば、その効能が身体に現れるものだよ。ね?」
「ね? じゃない! 今更信じ込めるかいや信じてたら余計飲めるかぁっ! ねぇさっきから丹生は私に何をさせたいわけ!?」

 大概しつこい。
 もうこのネタはいい加減に終わらせたかった。
 
「紫帆を一生強請れるネタがほしい」
「死んでしまえ!」

 怒りで眩暈がした。
 近くにあった椅子にどかりと座り込み、両手で顔を覆う。
 
 どうして私はこんなやつと一緒にいるんだろう。
 
 自嘲とともにそんな今更な問いが頭を過る。
 ぐったりしてしまった紫帆を労わるように、斑が優しく肩を叩く。
 
 彼の態度の変化にゆっくり自分の手を退けると、至近距離に整った斑の顔があった。
 
「疲れてるときにはコレ」

 差し出されたのはビーカー。
 その中には液体が入っている。
 
 蛍光の紫色をした、さっきのピンク色のものと大差ないほどに到底身体に良いとは思えない、それ。

「だから、飲まないって、言ってんでしょーがぁっ!」
 
 紫帆の断末魔と、斑の心の底から楽しげな笑い声が、今日も今日とて化学室から発せられていた。
 
*

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