あなたがイタリアに帰ると言ったのを、
内心、死刑宣告かなにかの様に聞いた。
日本に居るあいだでさえ慌ただしく仕事をこなしているあなたなのだから、
母国ではきっともっと忙しいのだろう。
だから次に日本に来るのは早くても3ヶ月後、と言われたのを、
心臓の端をがらがらと崩しながらも、
まぁ妥当な数字だろうとどこか冷静に思っていた。
彼にとって、僕はあくまでただの生徒。
家庭教師と生徒以上の関係にはなれない。ならないのだ。

たった3ヶ月だと高を括ってからというものの、
毎日が過ぎるのが急激に遅くなった気がした。
季節が変わるのなんて一瞬の事だったのに、
今年の冬はいつまで経っても春にならない。


「……、」


35枚目の日めくりのカレンダーを囲炉裏の火にくべる。
いっそあと55枚も一気に燃やしてしまおうか、
そうしたら55日後にタイムスリップして、
あなたは戻ってるんじゃないだろうか、
そんな事を考えるのも35回目だった。
記憶の中ばかりやたら鮮やかで、
原色の人が脳内を駆け回っているのが常だ。
ある種の精神疾患みたいにあなたの事ばかり考えている、
いっそ病気だと診断してくれた方が楽になれる気がした。

薄い紙が灰になるのを見届けて、広い畳の上に寝転がる。
囲炉裏から離れると温度は急に下がる。
しかし寒いと感じたのは一瞬で、何故なら皮膚の奥の方が不快なくらいに熱かった。
寝間着の上から自分の身体に触れる。
目を瞑って、あなたに触られていると、空しい暗示をかけた。


「…っん」


袷を分け入って、胸元をくすぐれば身体の表面に電流が走る。
痺れた頭が、両肩から先の神経を断ち切るように、意識を改ざんする。
今この身に触れているのは自分の手ではなく、シルクの様なあの人の肌。
目をぎゅうと瞑って、恥ずかし気も無く声を漏らしながら、
脚の付け根でゆるりと勃ち上がったのを、衣服を捲り上げてそろりと触れる。
指先が浅ましい熱を撫で上げると、さらけ出された脚に鳥肌が立った。
もどかしく畳を蹴る。い草がざり、と鳴った。


「ぁ、や…ディー、ノ、」


目を閉じた世界でディーノに抱かれる。
唯一自分の世界に干渉してくる彼が、鬱陶しくて仕方の無かったはずの彼が、
いったいいつからこんなに脳内を占拠するようになったのだろう。
背徳的だ、馬鹿みたいだ、そうは思うのに、
疼く熱源を握り込んで、自分の名を呼ぶ優しい声を再生すれば、
それは右手の動きを一層激しくさせた。
脳裏に浮かぶ彼を夢中で追いかける。
もっと、もっと触って。もっと。


「…っ、っは…」


待ち望んだはずの絶頂は、あまりにも現実染みていた。
衝動に飲まれてつい開いてしまった目には、当然見慣れた天井が映った。
静まり返った部屋には、滑稽なくらい息を乱す僕以外には誰も居やしない。当然だ。
白く汚れた右手と下肢をぼんやりと見つめる。
絶頂の瞬間くらい、妄想でも構わないから彼に見送って欲しかった。
そう思った事は事実だったが、途端に身体の底から嫌悪感が沸き上がった。
妄想の中であれ、彼を汚した。
吐き出された欲望に身体のすべての熱を持っていかれて、
冷静になるに連れ吐き気すら覚えた。
あぁなんて、浅ましい。
罪悪感か虚無感か、それとも寂寥か、
みるみる歪んでいく視界は、瞬きひとつで明瞭になった。
同時に頬をぼろりと涙が滑っていった。いったい何故泣いてるんだろう。


「…ディーノ、ディーノ、…ー、の、」


それしか言葉を知らないみたいに、
ひたすらあなたの名前を繰り返した。
自分ひとりの部屋でほんの少しだけの音になるその声が、
あなたの耳に届けば良いと思った。
しかしこのあまりにみっともない現状を思い出して、
やっぱり気付くな、と身勝手にも願った。
まさかあなたも、遠く離れた地で生徒としてしか見ていない男が、
こんな風に自分を思いながら自慰に耽り、
その後でこんな風に自分を思いながら泣いているだなんて夢にも思うまい。
両目からは涙がこぼれるのに、唇からは笑い声が漏れた。

今の関係を崩したくないのに、
今の関係じゃあ満足出来ない。
この思いを伝える勇気が無ければ、
そもそもこの思いを言う気が無い。

恋い焦がれる肌が海の外に居てくれて良かったとすら思う。
きっと触れられる距離に居たら、気が狂ってしまうから。

もしこんな僕を知ったら、あなたはなんて言うんだろうか。
その優しい蜂蜜色をした瞳をどんな風に歪めるんだろうか。
その笑みを絶やさない唇でどんな風に僕を蔑むんだろうか。

考えれば考える程、あまりの滑稽さに自嘲した。
久しぶりに声を上げて笑った。
そしてそれから、生まれて初めて声を上げて泣いた。




 ゆ う き が 欲 し い         









120322.



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