寝転がるその黒髪がベッドサイドの明かりをいつもより多く反射している気がして、 近付いて良く見れば、それは想像どおりに濡れていた。 「恭弥、」 すっかり呼び慣れた名前を口にすれば、 すっかり呼ばれ慣れただろう彼は顔だけで振り向いた。 眠っていたわけではなかったようだが、完全におやすみの体勢だ。 微睡む目蓋を数度ぱちぱちと叩く、 そんな仕草ももう数え切れないほど見てきた。 「ちゃんと髪乾かして寝ろってば。もう子どもじゃねぇんだから、何回言わせんだよ」 「だって、めんどくさい」 「だってじゃありません。ったく、」 濡れた髪からこぼれる水滴でグレーに変色したシーツに埋もれながら、 僕は風邪なんてひかないよ、などと平然とのたまう。 風邪をひかれては俺が困るのだ。 例えそれがなんて事の無い微熱であったとしても、 この子の事となると心配で心配で、仕事など手に付かなくなってしまうのだから。 「ほら、起きなくて良いからこっち来い。タオル貸せ」 だらしなく力の抜けた身体を引っ張り起こして、甲斐甲斐しく世話を焼いてやる。 上半身を俺に任せきりにしてすっかり脱力しきった彼は、 仮にも、弱冠15歳にして東洋の町ひとつを支配していた雲雀恭弥という恐るべき人物であるのだが、 それがなんとまぁ、今は優雅な飼い猫のようなくつろぎっぷりだ。 思えば本当に猫みたいな奴だ。 言う事も聞かないし、待ても出来ない。どこまでも気ままで自分本位な人。 しかしそんなところも好きなのだから笑ってしまう。 こうして見ると、艶やかな濡れ羽色は、まさしく品の良い黒猫のそれみたいだ。 「…なんか、トリマーにでもなった気分、」 「なに言ってんの、さっさと終わらせてよ」 「…ほんと、可愛げの無い猫ちゃんだこと」 ちょっとだけ楽しそうに恭弥が肩を揺らす。俺もつられて笑う。 10年も昔の話だ。旧知の恩人に頼まれて、というか脅されて、突然中学生の家庭教師をする事になった。 人にものを教えるなんて経験が今までの人生で無かったものだから、 果たして俺に務まるものなのかと、内心不安まみれで応接室の扉を開けた。 部屋の中に居たのは、話に聞いていた暴君のイメージとはかけ離れた、 凛として、姿勢が良く、線の細い、 まさしく優等生然とした少年だった。 あの時の恭弥よりももう少し幼い頃、十を過ぎた時にマフィアのボスを継いで、 いわゆる一般常識とはかけ離れた生活を送ってきた。 自分と年の変わらなそうな少年たちがサッカーボールを追いかけ走り回っているのを、 だだっ広く豪奢な、子どもには到底似つかわしくない歴代ボスの主寝室の窓から眺めていた。 ファミリーの為だと押し殺した感情は数え切れないほどあった。 みんなを困らせるわがままは悪だと言い聞かせて生きてきた。 これが俺の生きる道なんだと、そしてそれを誇りに思ってもいた。 その決意を初めて揺らがせたのが、この子だった。 唇を触れ合わせるだけのキスを何度も繰り返す。 口と口をくっつける、それが何故愛を誓う行動なのかとたまに疑問に思うのだが、 実際こうも満たされてしまうのだから、たぶんきっと理屈とかじゃないのだ。 「…ディーノ、」 わずかに離れた唇が小さく言った。 俺はそれこそ舌が痺れるほど彼の名を呼んできたのだが、 恭弥が俺の名前を呼んでくれるのは案外レアだったりする。 もしや名前を覚えられてないのではと疑うくらい、 ねぇ、とか、あなた、とかそんな曖昧な代名詞ばかりいつも使われて、 だから時たま名前を呼ばれると結構来るものがある。 微睡む瞳はじっと俺を捉えたままで、俺は捕らえられたままだ。 睡魔に惑わされているにしては、やたら透き通った黒色の目をしている。 初対面で俺を射抜いたのもこの瞳だった。 ふたりがここまで来るのに流れた時間は決して平坦なものではなかったけれど、 俺が躓く度、迷う度に、 俺を引っ張って導いてくれた、答えをくれた瞳だ。 「……、」 「…なんだよ」 あんまりにもじぃと見つめてくるものだから気恥ずかしくもなってしまって、誤摩化すようにキスしてやった。 途端、待っていたと言わんばかりに首に回された腕は相も変わらず細っこい。 腕の中に愛する人が居て、静かな時間と、暖かい空気がある。 特別感などちっとも無い、だけどこれを幸せと呼ぶんだろうかとぼんやり思う。 「…なんか今日は、ぼんやりしてるね」 「へ? あー、そんなつもりじゃ無かったんだけど、悪ぃ」 「ほんとだよ。目の前に僕が居るんだから、余所に気をやらないで」 さり気なく大胆な事を平然と言ってのけるもんだから、 なんだかきゅんとしている俺の方がおかしいみたいだ。 「悩み事かい、」 聞いてあげるよ、と俺の鎖骨辺りに頬を擦り寄せて恭弥は言った。 そんなんじゃねぇんだけど、と恭弥の襟足を擽りながら俺は返す。 10年前、俺は初めて私欲が抑えられないという感覚を知った。 他でも無い、この子が欲しいと思った。 今まで一切のわがままを残らず切り捨ててこれた俺だった。それはもう戸惑った。 第一俺は師としてこの子に接さなければならず、 大事な預かりものである彼を欲しがるなど言語道断だ。 それでも修行の為に毎日のように顔を合わせていれば、 押し隠した感情は日毎に膨れ上がっていった。 ある日の夕方、連日の疲労が祟ったのか立ち眩んだ彼を支えようと抱き留めた時に、 とうとう腫れ上がった感情が音も無く決壊した。 もうずっとこのまま、この子を腕に閉じ込めていられたら良いのに。 ただふらついただけの人間を相手に不自然なぐらい腕の力を強めて、その上格好悪い事に泣き出した俺を、 恭弥は不思議そうに眺めながら、真っ黒いあの瞳で眺めながら、ただ黙って身を寄せてくれた。 俺、お前が好きみたいだ。 そんなあやふやな告白に、恭弥は別段いつもどおりに、そう、とだけ答えた。 「俺、今、結構幸せだよ」 「…ふぅん、」 腕の中の恭弥を抱え直す。 そういえば髪を乾かす事をすっかり放棄してしまっていた。 「なぁ恭弥」 「なに」 「結婚しようか」 恭弥が顔を上げた。 大層驚いた顔だ。この子のそんな表情が見られるのは、軽い天変地異に匹敵するぐらいには珍しい。 そんな恭弥を前に俺は暢気に、黒くてすらりと伸びた睫毛が綺麗だとか、そんな事を考えていた。 「……は?」 「一応言っとくけど、本気だぜ」 ぱちぱち目を瞬かせている恭弥を見ながら、 指輪はおろか花束すら用意の無いプロポーズの敢行に我ながら呆れた。 だけど思いつきで言ったわけじゃない。 言うなら今しか無いと、なんだかそんな気がしたのだ。 「…なにを、言い出すのかと思えば、」 「ん?」 「無理だよ。僕とあなたは、別々のマフィアの人間なんだ」 「あぁ、俺たちとしては、ボンゴレと今以上の繋がりが持てるのは間違いなくプラスだ。そっちにとっても、悪くはない話だと思う」 「そうだとしても、」 恭弥は焦れたように、目を泳がせる。 「あなたには跡取りが必要だろ、」 こんな弱々しい恭弥の声を初めて聞いた。 「僕はあなたの恋人にはなれても、結婚相手にはなれない。もっと相応の人間が他に居る」 「居ないさ」 まるで俺から逃げるように俯いた恭弥の両頬に手をやって向き合わせる。 いつだってこっちが気後れしてしまいそうなほど相手をまっすぐに見つめる恭弥だ。 その目が不安そうな、哀しそうな色をしているのはなんともらしくなく、 だけど俺の為にこんな顔をしているのかと思うと余計に愛しくもなった。 「…ロマたちがさ、いい加減好きに使ってやれって」 「なにを、」 「俺の人生を」 恭弥がそんな様子だから、今更俺まで一世一代の告白に照れてしまいそうになる。 「でも、キャバッローネを終わらせるのは俺も本意じゃねぇから、血縁の親戚をあたるか…もういっそ、ロマの子どもに継いでもらっても俺は良いと思うんだけど、」 「……でも、」 「なぁ恭弥。10年前のあれ、ちゃんと言い直すよ」 10年間。10年もの月日が経っても、俺はあの日と同じように恭弥を抱き締めている。 そして10年もの月日が過ぎた今、曖昧だった感情がようやくはっきりと見えてきた。 「俺はお前が好きなんだ」 抱き寄せた肩が少しだけ跳ねた。 互いに顔は見えない。だけど心臓の音でどんな顔をしてるかなんてきっとばればれだ。 「お前のこれからを、俺にちょうだい」 とてつもなく長い、だけどほんの一瞬にも感じられた沈黙のあと、 さっきよりずっと弱々しい声で恭弥がぽつりと、まるで精一杯みたいな口振りで言った。 「……そう、」 部屋に再び沈黙が落ちる。 互いの心臓と呼吸器しか存在していないみたいだ。 ふ、と耳元で息継ぎが聞こえた。 なんだか違和感を覚えて恭弥を見やれば、彼は相変わらずの無表情で、 なのに鼻の頭を真っ赤にしてぼろぼろ泣いていた。 そして俺はと言えば、さっきの恭弥以上に驚いていた。 「…っ、きょう――」 「……見るな、ばか、」 そっぽを向いた恭弥のまだ少し湿った黒髪の隙間から見える耳が赤い。 いやだけどまさか、恭弥に限ってプロポーズで泣き出すなんて、そんな。 「…違うからね、」 「え?」 「別に、プロポーズに感極まって泣いてるとか、そんなんじゃないからね」 「へ? あ、違ぇの?」 「あなたは、」 恭弥はゆっくりと、一度呼吸を置いた。 首に回していた手で確かめるように俺の背を撫でる。 「あなたは昔から、人に優しくするのばかり上手で、なのに自分にはちっともで、」 「……」 「いつも群れの中に居るくせに、いつもひとりぼっちみたいな顔して」 恭弥は言う。涙の粒が白い輪郭を滑っていく。 俺は情けない事に、滅多に泣き出さない恋人を前にどうしたものやらすっかりわからなくなってしまって、 頬を伝う涙を拭ってやるぐらいしか出来ない。 「だから、あなたが僕を好きかも知れないって言った日に、決めたんだよ」 「…なにを、」 「僕だけは、あなたのわがままを叶えてあげようって。あなたのものになってあげようって。いつか、僕が要らなくなる日までは、」 続きの言葉を探すように恭弥は口を閉ざした。 うん、とどこか困った顔をする。なんか良くわかんないんだけど、と。 「僕はたぶん、嬉しいんだと思う、」 あなたが初めて、あなたの為に欲しがったのが僕で、嬉しいんだよ。 そう言った恭弥の唇が、俺の唇に重なる。 涙の味のするそれは離れると、少しだけ弧を描いた。 「…ねぇ、」 「……なんだよ、恭弥」 伏せった睫毛の向こうで涙の膜の張った黒い瞳が俺を見ていた。 俺が躓く度、迷う度に、 俺に、この子が好きなんだという答えをくれた瞳だ。 「僕、あなたが好きみたいだ」 腕の中に愛する人が居て、静かな時間と、暖かい空気がある。 特別感などちっとも無い、だけどこれを幸せと呼ぶんだろうかと、ぼんやり思う。 a f t e r t h e e n d r o l l エンドロールのその向こうで、 ふたりは何度目とわからぬキスをする。 一度目と変わらぬキスをする。 121122. back |