なんて事の無い些細な事だけれど、 例えば繁華街で覚えのあるオードトワレと擦れ違っただとか、 イタリアンの店先に飾られたワインボトルと同じのをホテルのあの部屋でも見たなとか、 とにかく近頃の僕はずっとこんな状態だったわけだが、 ある日夕食を買いに出掛けたスーパーでふと、普段なら絶対に買わないようないかにも体に悪そうな菓子をかごに入れていて、とうとう末期だと悟った。 そうだこの菓子もホテルの部屋でよく見るのだ、 うまいぜこれ、なんて言って彼は僕に指先で摘んだそれを差し出してみせた。 ジャッポーネの菓子はうまいよな、でもピザ味ならもっとトマトっぽい方が俺は好きだな。文句さえも鮮明に覚えている。 (なにこれ) このとおり、近頃の僕は気付いたらあの胡散臭いイタリア人の事ばかり考えている。 どうしたものか、これは早々に対策を練らねばなるまい、 なにせそんな事に気をやっていては仕事にも身が入らない。 心配性の草壁は作業の止まった僕を見るとどうかされましたかとそわそわしているし、 委員たちも僕の機嫌を伺うようになんとも締まりが無い。 万が一、最近の風紀委員はみんな上の空だとなめられてしまっては並盛の風紀に関わる。それだけは避けねば。 しかしこんな時に限って当のイタリア人はやって来ない。 カテキョーなどと偉そうにのたまっていたので、 この感情の対処法を問いただしてやろうと思っていたのに、来ない。 むかつく。どうでも良い時ばかり来るくせに、肝心な時に来ない。 「…むかつく、」 「――もっ、申し訳ありません!」 独り言に返事があってはっとした。顔を上げると、風紀委員のひとりがこれでもかと頭を下げている。 いつから居たのか、いや、よくよく考えたらさっきからずっと居た。僕が意識から追いやっていただけだ。 周囲に気が回らないくらい、僕は考え事に落ちていたのか。 「…もう帰るよ、」 「はっ、お疲れさまです!」 訂正してやるのも面倒で、今日はもう帰る事にした。どうせこのまま居残ったって、書類は1枚も片付かないのだ。 校門へと歩きながら、無意識に悪趣味な赤を探している自分に気付いて尚更嫌気がさした。 週末の商店街は賑わっていた。 なんだって僕の機嫌の悪い時ばかり人類は群れたがるのか、 それなのにトンファーを振るうより先にどいつもこいつも逃げていく。 つまらない。つまらない。 逃げずに僕に立ち向かってくる奴は居ないのか。 僕が数回トンファーを振り下ろしたくらいじゃへばらないような、咬み殺し甲斐のある、そうだあのイタリア人のような。 そこで、はたと気付いた。 そうか僕は強い相手が欲しいのだ。だから無意識に彼を求めていたのだ。 やっと答えを見つけて晴れ晴れとした気持ちで自宅に戻り、しかしそこで僕はまた頭を悩ませる事になる。 だったら机の上に積み上げられた、彼の好物の菓子類はいったいなんなんだろう。 「…餌付けかな」 「……は?」 一晩悩み抜いて出した結論はそれだった。 毎朝の服装検査の為校門で見張りをしながら、 隣に立っていた草壁は何度も瞬きをして、それから声を落として言った。 「あの、委員長、お言葉ですが」 「なんだい草壁哲矢」 「やはりどこかお身体の調子が悪いのでは…」 「なぜ」 「近頃、どこか上の空に居られるもので…」 お前までそんな事を言うのかと殴ってやろうとしたが、 しかし彼の言うとおり、何事にも集中出来てない自覚もある。 結局その場は草壁に任せて、僕は応接室で一眠りする事にした。 ソファに寝転がるとすぐに目蓋は落ちた、 思えば昨晩は考え事のせいでなかなか寝付けなかったのだ。 うとうと、ソファの上で微睡みながら思う。 そうだ、やっぱりあれは餌付けだ。僕よりずっと年上のくせにやたらと子どもっぽい彼なので、菓子で釣るなど容易い事だ。 きっとあんな些細な贈り物にだって、彼は瞳を輝かせて、満面の笑顔を浮かべて、目映いばかりのそれらを惜しげもなく僕に向けて、 優しげなのにどこか色っぽい声で、僕の名前くらい呼んでみせるだろう。 僕は、彼に戦って欲しいだけなのだ。だからこんなにも彼に執心なのだ。 彼の事を考えると心臓がやたらと鳴るのも皮膚がやたらと体温を求めるのも、きっとその延長だ。 これが答えだ、彼に向いているこの感情は、 「好き、」 目を開けた。急激に浮上していく意識の中で、目の前に驚いた顔をしている人が居るのが見えた。 「…なんだ、起きてたのかよ。びっくりした」 へらりと破顔して、おはよう、といつもののんきな声で言うのは例の自称家庭教師だ。 なぜここに居るのか、どうやって入ってきたのか、聞きたい事はもろもろあったが、 僕は今し方、僕の目を覚まさせた言葉の方が頭の中で溢れてごった返してそれどころじゃなかった。 「いま、」 「ん?」 「なんて?」 「あぁ、好きって」 彼は事も無さげに言う。それからなんの躊躇いも無く、僕の頬に唇を当てた。 「…別に、いつも言ってるだろ? なんだよ今更、」 ちょっとだけ照れ臭そうに目を細めながら、ふふ、とそれはもう歳不相応に可愛らしく笑った。 「好きだよ、恭弥」 抱き起こされて、そのまま腕の中に閉じ込められてしまった。 僕は動けない。されるがままになりながら、頭の中だけはなんとか回してぐるぐる考える。 この感情は。心臓がうるさく鳴るのは。頬が熱を持つのは。名前を呼ばれてくらりとするのは。胸の奥がつんとするのは。 もっともっと触れたくなるのは。 「俺は恭弥に恋してんだ、」 恋。恋? これが? このなんか、そわそわふらふらびりびりするのが? 思考が追いついていかない僕には構わず、 お前は応えてくれねーけどなぁ、と彼は拗ねた調子で言う。 しかしその割りに声色は楽しそうで、僕はますます混乱していく。 …あぁ、きっと混乱していたからだよ、 だって別に僕はあなたに恋をしているだなんて、思ってないんだから。 「……恭弥? なんか今日変じゃ、…っむ」 ちょっとこんがらがっちゃったから、だからきっと、思わず僕からキスなんてしてしまったんだよ。 こ ん が ら が っ ち ゃ う 121116. back |