春眠、暁を覚えず。
されど、春はあけぼの。
じゃあどうしろと言うのだと思いながら、
結局欲望には勝てずに温い毛布から手だけを伸ばし、がなり立てる目覚まし時計を黙らせた。
清少納言よりも孟浩然のが人間の欲望を良くわかっているのだ。
うとうと、微睡むこの時間はまったく何事にも代え難い。
あぁ、起きたくない。ずっとこうして居たい。
嫌な事などすべて忘れて、なにも考えないで穏やかに眠っていられる。きっとこれ以上幸せな事なんて無い。
寝返りを打つ。柔らかな枕に頬を擦り寄せて、
もう一眠りしようと息を吐いた、その時だ。


「――おはよう!!」


いつもならノックされるはずのドアがなんの前触れも無く開かれた。
威勢の良いあいさつと同時に、ずかずかと足音を立てて室内に入ってきた侵入者は、カーテンと窓を躊躇無く開けた。
太陽光と外の冷えた空気が部屋に入り込んでくる。
目蓋と頬に容赦無く降りかかるそれらを遮ろうと反射的に毛布を引き寄せたが、それ以上の力で引っ剥がされた。
ただでさえ朝は機嫌良く起きられるタイプでは無い。
こんな乱暴なやり方で無理矢理起こされて、当然苛立った。


「なにするの、沢田…っ」


塞がりかける目蓋を開けて睨みつけた先には、
知らない男が、少なくとも沢田ではない男が、
にこりと笑って僕を見ていた。


「Buon giorno、ヒバリキョーヤ」




 サ ナ ト リ ウ ム         




沢田、というのはここの職員だ。
大概僕の面倒を見てくれているのが彼で、
温厚で優しい性格なのだが、そのせいで少々気が弱い奴だ。
だからそんな沢田が断りも無くドアを開け、元気の良いあいさつをして、
僕から無理矢理布団を剥ぎ取るなんて事は、まぁ冷静に考えればおかしな話だった。

目の前に居る男を、重たい目蓋を持ち上げてじとりと見つめる。
きらきらに跳ねた金髪と、それと同じ色の長い睫毛、虹彩はアンバー、
沢田も比較的明るい髪色をしているが、一目で日本人の色ではないとわかった。
記憶を辿るが初対面のはずだ、
こんなに無遠慮に接されるいわれは無い。
睨みつけていると、にこにこ笑っていた男はふいになにかに気付いたような顔になった。


「あ、ツナじゃなくてごめんな」


そうじゃない。
別に沢田じゃなかった事を気にしてるわけではない。
見当外れの謝罪にいっそういらいらを募らせるが、
こちらの剥き出しの警戒心も意に介さず、
男はベッドに横たわる僕を見下ろした。


「俺はディーノ。今日からここの診療所に移って来たんだ」


前髪に遮られて光は当たっていないはずなのに、
不思議なくらいにきらきらしている瞳はいっそ、本物の琥珀が埋め込まれてるように見えた。
ディーノ、とは果たしてどこの国の名前だったか。


「所長から、お前の面倒を任された。よろしくな」


俗に言う、笑顔の絶えない人、というのはこんな人の事を言うんだろう。
愛想などとは無縁に生きてきた僕とはまるで正反対な奴だ、
きっと未来永劫、互いに相容れる事は無いと思う。
そう考えていると、胸の上辺りに右手が差し出されていた。

「……、」


その手を取る気にはなれなかった。
大人の少し骨ばった手を見つめたまま微動だにしない僕に、
しかし男は気にした風も無く(むしろ想定内だったのかも知れない)、
また目を細めて笑うと、よし、と背筋を伸ばした。


「ほら、朝飯持ってくるから、それまでにちゃんと起きてろよ?」


屈託無い笑顔の男が出ていくと、部屋は急に静かになった。
のろのろと身体を起こす。今まで羽毛布団に守られていた上半身に、
窓から絶え間無く入り込んでくる外気が当たって思わずぶるりと震えた。
外は眩いほどに快晴である。

冬の終わり、春の始めの候、
ガラス窓の向こうの空は雲ひとつ無く、
少し離れたところに見える、この診療所の看板を囲うように造られた花壇ではいくつか花も咲き始めていた。
ベッドサイドの棚の上の花瓶にも水仙が2輪、生けられている。
3日前、沢田があの花壇から切ってきたものだ。
白い星の形をした花びらは綺麗に、らんらんと咲いているが、
内側の黄色いチュチュスカートのような花びらは、裾のフリルから僅かに色が抜け始めていた。
男の言っていた言葉を思い出す。
今日から彼が僕の担当医、と言っていたか。
知らず溜息が出る。
ほんの僅かな、数分間の邂逅だったが、
しかしこういう時の勘とは大概当たるものなのだ。

あぁいう人間は、嫌いだ。





121128.



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