あなたって、空気みたいだね。


月の覗く宵の入り、ちょうど今ぐらいの、吹く風が急に温度を下げた秋の初めの頃だった。
かじかむ指先を誤魔化しながらなんでも無さそうに、
昔、恭弥は唐突にそんな事を言った。
当時の俺はその言葉に大いに傷ついた。
恭弥にとって俺はただの空気だと、それこそ俺の真横を通り過ぎていった秋風よりもずっと存在の薄いものなのかと、
半ば彼を中心に世界が回っていると言っても過言でなかった俺はそれはもう落ち込んだ。
しょげて肩を落とす俺をきょとんと、まるで他人事と言った顔で眺めていた恭弥が憎らしくて、だけどそんな仕草もやっぱり可愛くて、憎さ余って可愛さは何百倍で、
だから今日という日までただただ彼を盲目なまでに愛してきた。
そうこうしてる内に流れた年月はとうとう10年にもなり、
隣で眠る人は、当然だがあの時よりも大人になっていたし、
まさかこんな無防備な寝顔を平然と見せてくれる日が来るとは思ってもみなかった。
俺が寝返りを打つ度に起こしちまって悪かったなぁと、今じゃあ声を掛けたくらいでは余裕で微睡んでいる彼を一層愛おしく思う。
真白い肌を撫でながら、空気に溶け入る呼吸の音にじっと耳を澄ませる。
もしかしたらあの時の言葉は最大の賛辞だったのだろうか、なんて思うのだ。


「ん、」


恭弥が少し身を捩る。短い前髪がはらりと落ちて、露わになった額に思わず口付けた。
出会った頃から変わらず、恭弥は今でも手足を折り畳んで眠る。
さながら暴君のような普段の彼を知っている身としては、こんなところも愛おしくなってしまって仕方が無い。
お陰でせっかく広いベッドは半分以上も使えてない。有り余る空間を持て余して、それなのにやたら俺にくっついて眠る。
理由なんて考えない。考えれば考えるだけ、今より彼に溺れていくのは目に見えている。
しつこく顔中に唇を落としていたら、ふいに恭弥が目を開けた。
艶やかな黒い睫毛が持ち上がり、深黒の眼が眠たげに俺を捕らえた。


「…なに、」


寝起きの独特の掠れた声で訝しむ。彼のこんな声を聞けるのも世界でただひとり、俺だけではなかろうか。


「なに、って?」

「にやにやしてる…」


気持ち悪い、と彼は平気で酷い事を言う。
だがそれはひとえにお前のせいだという事にいい加減気付いて欲しい。


「あんまりだらしない顔、しないでよ」

「ん、悪ぃ悪ぃ」


おはようのキスを寄せれば当然のように返してくる。
あの雲雀恭弥がだ。


「ねぇ」

「ん?」

「あなた、今日の予定は?」


目蓋を眠たそうにぱちぱちさせながら、恭弥はうっすらと微笑む。
綺麗だ。この子は本当に。


「俺は1日オフだぜ。お前は?」

「奇遇だね、僕も今日は休みだよ」

「ほんとか? じゃあ、」


ショッピングでも、と言い掛けた。
もう随分寒くなってきたから冬服でも買いに行こう、お前には洋紅色のマフラーがきっと良く似合う、
夕食は外でも良いが俺はうちで食べたいな、その方がゆっくり出来るだろう、
なぁ、今日はふたりでずっと一緒に居よう。
蜜月のような完璧なプランニングは、提案するより先に遮られた。


「戦おうか」


さっきまであんなに無防備だった恭弥はまるで別人みたいに凶悪に微笑む。
…どうせこの子は、俺が今日という日の休日を勝ち取る為に、昨日までどれだけ必死に机上の書類を片付けていたかなんて察する気も無いに違いない。
だけど、悠然と笑うその表情を、少しでも綺麗だとか思った時点で、俺にはもう拒否権なんて無いのだ。



キャバッローネ邸の中庭は並中の屋上に比べれば戦いにくい。
地面は煉瓦で足場が悪いし、ところどころに草花が手を伸ばしている。なにより壊すとロマが怖い。
しかし恭弥は無論そんな事お構い無しだ。
襲い来るトンファーを避けたら、すぐ後ろにあったらしい植木鉢が悲惨な音を立てて割れた。幸い怪我はせずに済んだが頭が痛い。仕返しとばかりに鞭を振る。
仮にも、かつて一番弟子だった彼だ。
今では立派に守護者なんてやってる。噂ではボンゴレ最強とすら呼ばれていて、師としても鼻が高い。
しかし弟子から恋人に昇格した彼は今でも執拗に修行と言う名の殺し合いを要求する。
一瞬でも気を抜けば死ぬような、おおよそ恋人同士の甘い時間とはかけ離れたものである。
振り下ろされるトンファーはいつかよりも重いし速いし、
大きくなった身体の分だけ、すばしっこさは減ってもリーチは伸びる。
重心を前に傾け過ぎる癖も、左側の反応が一瞬遅れる事もいつの間にか無くなった。
喜ばしい事だとは思うのだ。ただなんとなく、切なくなるだけで。


「ちょっと、」


纏い付こうとする鞭を慣れた風にかわして、恭弥が左腕を振る。
両手のあいだで張った鞭でそれを受け止めながら足を払う。
避ける恭弥が足下に意識をやる一瞬で、身を翻して次の攻撃の為の距離を取る。さすがに近距離戦では今の恭弥に勝てる自信が無い。
体勢を整えた俺を、しかし恭弥は追撃をしてこないどころか、
ちょっと考えるように立ち止まって、そしてトンファーから手を離してしまった。


「…つまらないな」


からん、と固い音が鳴る。
あの戦闘狂が自ら武器を手放すなんて、
驚きのあまり言葉を失う俺に、恭弥は宣言通りのつまらなさそうな視線で俺を睨む。


「他事考えてたでしょう」

「…や、別に」

「何年一緒に居ると思ってるの?」


不機嫌な色を乗せて言葉を紡ぐ唇がへの字に歪む。妙に子供っぽい仕草だ。
はぁ、と珍しく溜め息を吐いた。


「僕だってもう強くなったでしょう、」

「ん?」

「まだ本気出してくれないつもり?」


床に転がるトンファーをつま先でつついて、いじけた子供みたいな事を言う。
別に本気を出さないつもりも強くなってないとも思っていない。
多少の手加減のあった10年前から俺に食らいついてこれたのだから、
あれから成長期を迎えた現在の恭弥はともすれば俺よりも強くなっているとさえ思っている。
強いて言うなら師としての意地だろうか、
この子の前では多少の無理をしてでも、強がっていたいのだ。
つまらない、と恭弥は繰り返す。


「あなたは本当にめちゃくちゃだったよ」


どこに初対面の人間を強くするとか言う人が居るの。
首からネックレスのようにして下げた指輪を指先で転がしたり弾いたりしながら、恭弥は言う。
俺たちを引き合わせた指輪だ。


「冗談だと思ったのに本気で言ってるし、怪し過ぎるし。不法侵入だし、刺青まで入れてて、金髪だし、へなちょこだし、校則違反も甚だしいよね」

「へなちょこは関係無ぇだろ、」

「どうして咬み殺さなかったんだろう」


不思議そうな顔で、15の頃の自分を非難している。
あの時よりも背が伸びて身体も出来上がった恭弥を見やる。
相変わらず心配になるような細さだけれど、簡単に崩れてしまうほど脆くない事を知っている。短く切ってしまった髪も、見慣れれば良く似合っている。
そういえば傷も増えた。ここから見える傷痕はそんなに無いけれど、命を脅かすような怪我も一度や二度じゃなかったはずだ。
くるくるとチェーンに繋がった指輪をいじる手だって、俺の手の中で収まっていたのがちゃんと大人の手になった。
10年前、試しにはめさせたあの指輪はぶかぶかで、とてもトンファーを握れそうも無くて、そうだそれでチェーンを与えた。
きっと今の恭弥なら指輪をきちんと付けられる。だけどそれをしないで、俺のお下がりのネックレスを今でもしている。


「…また僕を放って考え事?」


む、と眉を寄せた恭弥が近寄ってくる。
文句のひとつでも言うつもりだったのだろうが、
俺はと言えばもう目の前に来てくれた恋人への愛しさで自制が効きそうもない。
衝動に任せて抱き寄せたら、細っこい身体は驚いたようで、だけど抵抗だとかは返ってこなかった。


「…なに、」

「好きな奴を抱き締めるのに理由なんてねぇよ」

「相手の事情も考えなよ」


ぐちぐちとなにやら言ってる割りには大人しいし、さり気なく頬を擦り寄せてきたりしている。
可愛くない。可愛い。可愛い。


「…でも、あなたが僕の事情を考えてくれた事なんて、思えば一度も無かったね」

「一度もって事はねぇだろ」

「だって最初からそうだったじゃないか」


突然応接室に乗り込んできたかと思えば、誰それと戦って欲しいだの強くするだの、雲の指輪がどうのこうの、
まぁひとつも聞いてなかったけどね、とやたら誇らしげに恭弥は言う。


「指輪なんて言い出すから、てっきりプロポーズでもされるのかと思ったよ」

「初対面でプロポーズとか、運命だな」


冗談めかして言う恭弥に笑ってみせる。
でもその相手を10年間思い続けてプロポーズするのなら、それもかなり運命的だ。
恭弥の首に掛かる指輪をすくい上げる。俺たちの出会うきっかけになった指輪。指輪で始まる恋の話。運命的じゃないか。


「…空気だと、ちょっと嫌な意味みたいになるだろ」

「……空気?」

「酸素って言ってくれたら、若い俺でも理解出来たのに」

「……?」


唐突に昔話を引き合いに出せば、恭弥はきょとんと、首を傾げた。
雲の刻印にキスをして、そうすると今度は目の前の唇が面白くなさそうに歪んだのでそちらを奪ってやった。
これからも互いの存在で息をして生きていこう。
大それた告白など無くても、きっと10年も前から俺たちはその事に気付いていたはずだ。


「…なぁ恭弥。今日なんの日か、知ってるか?」


なんだかむず痒い気持ちで、ふにゃふにゃ緩む頬を意識しながら聞いてみた。
恭弥は伏せていた目蓋をゆるりと開く。


「…知ってるよ、」


唇に綺麗な弧を描いて、俺を正面から見据えてみせる。




僕とあなたが、運命の出会いをした日だ。









121014.



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