空のティーカップ
春のことだった、フランシェスカは王城の自室の脇にある小さな庭のニッチで、煎れたての熱いアッサムにミルクを注いでいると、部屋のベルがチリリ…となった。フランシェスカは凛とした声で「はい」と返事をすると、立ち上がりティーカップを二つに増やし、ゆったりとドアに向かった。フランシェスカの部屋に訪れる人間は限られている。フランシェスカはドアの向こうにたっているだろう人物を思い浮かべて微笑んだ。
「お休みの所申し訳ありません。陛下…折り入ってお話が」
あたり。そこには背筋をピンと伸ばし気難しい顔をするアーデルハイトの姿があった。
「あらあら、アーデルハイト。なんでしょう」
アーデルハイトは失礼しますと小声で断り、部屋に入り込むとドアをぴたりとしめて、フランシェスカに向かいあった。
「その…もしよろしければでいいのですが…」
「なあに?」
非常に言いにくそうに、ためらいがちに口をひらいて言うには
「…服を見繕っていただけないでしょうか」
「まあ、ハンスさんでは駄目なのですか」
「それはその…じょ、女性らしい恰好をしたいと…いいますか…ご迷惑なのは承知していますが…」
フランシェスカはくすくすと笑って、ちょっと悲しそうに微笑んだ。
「なるほど…アルバトロスさんとお出かけですね」
「いや、その」
「…もちろんいいですよ。ただし、わたし趣向になってしまいますけれど」
「申し訳ありません」
「すぐ謝るのはなしです」
「すみません…」
「め!」
***
「…下着も脱ぐのですか」
アーデルハイトが困惑気味に声を上げる。フランシェスカは質素な服を好むが、どこから持ち出したのか、フリルやレースがあしらわれた可愛らしい子ども服─大人用はぶかぶかだったため─を寝台いっぱいに広げていた。
「当たり前です。任せておくと、あなたは男の子みたいな恰好しかしないのだから」
フランシェスカはアーデルハイトの頭からつま先までを眺め
「パニエとドロワーズとシュミーズと…ビスチェとコルセットはいりませんね」
とつぶやいた。
「アーデルハイトは美人というよりは可愛いらしいですから、かわいらしさをおもてにださないと。はい、できました」
将来は期待きっと美人さんになりますけれど、と小声で付け足すと、フランシェスカはドロワーズだけつけているアーデルハイトにコットンオーバーニーソックと上品なフリルがあしらわれたパニエ、シュミーズ、美しいレースの生なりブラウス着せて、椅子に座らせ、手際よく、髪を編み、アーデルハイトの肩に手を乗せて、鏡の前に立たせた。
「わ…」
「さあ、この中から上に着たいものを選んで。アーデルハイト、あなたが決めるんですよ」
「私が…ですか」
「そう、一着だけ選んでね」
アーデルハイトは長い間考えを廻らせていたが、どうにも自分では決められない。そもそも、アーデルハイトは自分で服を選んだことがなかった。助けを求めるようにフランシェスカを見ると、フランシェスカはくすくすと笑い、「そうですね、あまり強い色は、似合わないかもしれません」と言った。アーデルハイトはますます考え込んでしまったがふと、ハンスの庭を思い出した。今は開花の時期で、沢山の薔薇や野の花が咲いている。その中でアーデルハイトはオールドローズの落ち着いた赤を思い出した。好ましい色だ。そう思い、アーデルハイトは寝台に広げてある服の中から一着、モスリンのオールドローズのワンピースを手に取った。セーラーカラーに膨らんだ袖、ボルドーのリボンがついている。
「それは私が小さい頃好きだった…」
「あっ、申し訳ありません」
「いえ、いいんですよ。こちらに来てください」
再び鏡の前に立たせて合わせてみる。大きさはぴったりだった。
「ええ、ええ。あなたのストロベリーブロンドに、ぴったりですね」
アーデルハイトはうつむいた。色の抜けきった自分のブロンドを褒められたことがこそばゆくて、うれしかった。
フランシェスカは屈んでうしろのボタンをぱちんと外し、アーデルハイトにスカートをくぐらせるとパンパンと裾を払い、またぱちんぱちんとボタンをしめていった。
「香水はつけますか? アルバトロスさんは香水は嫌いかしら」
「においのきついものでなければ、大丈夫だと…」
「なら、これにしましょうね」
フランシェスカがアーデルハイトに香水をつけると、爽やかな甘いにおいがした。
「なんですか?」
「レモンタイム。気に入りました?」
「…はい」
アーデルハイトは縮こまって返事をするとフランシェスカはまたくすくすと笑い、アーデルハイトを再び鏡の前に立たせた。
「はいっ。できました。惚れなおしちゃいますね」
「ほっ」
フランシェスカは人差し指を口に当て、冗談ですと笑った。
「気に入りました?」
「はい…とても…」
アーデルハイトは本心から恥ずかしそうにそう言った。
「ならいってらっしゃい。アルバトロスさんが待っていますよ。その服はあげます」
「いいのですか?」
「もちろん」
「ありがとうございました。このお礼は、必ず」
アーデルハイトは一礼すると、嬉しそうな顔で、フランシェスカの部屋を後にした。
フランシェスカは手を振ってそれを見ていたが、やがてベランダのニッチまで歩いて行き、結局紅茶が注がれることのなかったカップの縁をなぞり小さく「さびしくなりますね」と笑った。
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