一言なのに長いのだから作文はなおさらだらだら、
そのてん手しごと感想お知らせはだいぶん短め。


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うだうだしてる内に鬱状態だったのがだいぶ良くなってきた。今回はつらかったな。
その反動というわけでもないけど2023年版ロルバーンをぽちった。二冊。いやほんと鬱明け万歳とかじゃなくて今年(というか来年)のほぼ日がどうもいまいちだし、おととしから使ってみてるロルバーンに全面移行してもいいかなって。でもweeksは買う。あとはハイタイドもリフィルを用意して、余裕があれば日の長さを感じる手帳がほしいな。それからカレンダーも楽しみな時期になってくるね。予約しなければ。
とはいえ冬場はガス代が高かったり、転院も結局するつもりでいるのでその予算も必要だから今年は控えめにしないとなあ。と一応、言うだけは言っておく。

220827 2231
一言


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若いからサイト改装するなら魔法の○らんど風にしようかなとか考えたけどそういえば利用したことないから(読んではいた)何かこう、細長くてピコピコしてるってイメージぐらいしかない。ピコピコしてるのはバナーか。midiって携帯サイトにあったっけ?それpcサイト?キリ番(踏み逃げ禁止)と前略プロフとBBSが必須なのは確か。

220823 1823
一言


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↓の

>辛いから通院したいんだけど六月に通院した時に主治医に「何しに来たの?」って言われたことを思い出して今そこに行くのは自殺行為と判断する。

これがまさに「死んだらどーする!」状態で笑えないんたけど笑える。ていうか今の若い人は絶望先生って知ってるのかな。まあでもここ読んでくださってるほとんどの方は若……いですよね、どこかしらが!私も部分的に若いはずなので!幼いじゃなくて!

220823 1818
一言


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一ヶ月ぐらい前に読んだ本が衝撃的すぎて死にたくなる。ツイッターできなくなる。

辛いから通院したいんだけど六月に通院した時に主治医に「何しに来たの?」って言われたことを思い出して今そこに行くのは自殺行為と判断する。

死にたいけど歯医者の予約を入れたりしてしのぐ。

死にたい。

主治医との関係をいろいろ頭の中で整理する。

ますます死にたくなる。

保健センターなど各部署に相談する。入院なども要検討だがいずれにせよ主治医と会わないことにはどうにもならない。

入院のためではなくて普通に通院して普通に受診したい。でもできない。「何しに来たの?」みたいな軽口を今日はお控え下さいと受付の段階で伝言をお願いすることはできる。これでもう何度目かわからない。なんでそんなことしなきゃいけないのかわからない。「じゃあよそへ行け」って言われたくない。言われたことはないけど言われても妥当だとは思う。でも傷つかないわけじゃない。面倒くさい。疲れた。死にたい。←今ここ

主治医が御高齢でいつ引退しても不思議ではないから別のクリニックを探すことはこの一年ぐらいずっと考えて調べてもいたし恐らく三年以内には転院することになるんだけど何ていうのかな、転院でお別れじゃなくて、回復してお別れすることで先生にご恩返しをしたかった。今もそう思う。二十年もお世話になったのだし。
でも、元気な時は席を譲れても骨折している時は無理ですよって話。「何しに来たの」って言われた時は「いつものことねーはいはい」でかわせる精神状態だったけど今は「申し訳ありませんでした死んできます今までありがとうございました」になっちゃうから死にたくてつらいのに治療を受けられない。
て書いててしみじみ思うんだけど「何しに来たの」ってすごいな。意味わかんないな。いや予約もしないでいきなり行ったらそう言われるかもしれないけどちゃんと予約して普段から通ってて「何しに来たの」ってどういうことなんだろう。二十年間こういうこと何度もあったな。尊敬できるし信頼してる先生なのにそういう良い感情が目減りしていくようでつらいからもう行きたくない。嫌いになりたくないから行きたくない。努力したつもりだったけど無駄だったな。死にたい。

220823 1626
一言


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これ、そのうち整理してnoteにでも改めて書くつもりでいるから(予定は未定すぎる)以下は下書きみたいなもの。いつもの殴り書き。
『推し、燃ゆ』『桐島、部活やめるってよ』と立て続けに一人称の本を読んでて、というか『推し』でちょっと引っかかったこともあったので『桐島』にしたというのもあるんだけど、一人称視点の小説の描写加減でその視点の持ち主=主人公の設定に沿うか沿わないかでだいぶ違ってくるんだなと。
ちょっとネタバレになるので以下注意。
『推し』の主人公はどうやらADHDか何かあるらしい。病名は出てこないけどそれっぽい描写は序盤からあるし佳境に差し掛かったあたりで「私は病気なんだから普通にできない」と明確に告げる場面もある。かつ高校も学力が追いつかないこともあって中退になる。もともと勉強は苦手だった設定。ただ三人称(=読者=私、というのかな)で見た感じだと集中力はすごくあるし目的があればかなり困難な作業も継続して行える。と、主人公の性質や特質がとても細かく設定してある。
その上で一人称で語られる表現が驚くべき美しさ。もはや詩。失礼な言い方になるが「この子の知的能力でここまで表現できるものだろうか」と感心するのだけど、その違和感が妙に心地よい。
そこで気づいたんだけど「一人称=主人公」だとしてもその能力は描写に制限をかけない、ってことなのかな?と。
主人公の視点というか感覚を作者が言語化して一人称に変換……という形式というか手法なのかな、と。
主人公の能力がそのまま文章になっている例だと『アルジャーノンに花束を』がすぐに浮かぶけど『推し』はそういうのじゃないもんな。というか『アルジャーノン』は主人公の能力の変化が主題でもあるからあれはあれであれしか表現方法が無かったとはいえ特殊すぎて比較対象にならない。
でも何というのか、『推し』の主人公の子はADHD(仮)であっても、むしろそれであるがゆえに気づける様々な微細な空気や音や身体感覚があって、そういうものをいちいち言語化しないのは定型でも同様なのだけど、言語化していないだけで感知はしているというその繊細さが何だか圧倒的だと感じたのです。うまく言えない。たとえば胃の動きとか。私は胃のことなんて痛い時じゃなきゃ考えないんだけど、主人公は食べた時とか横になった時にも胃について触れていて、それは一人称でもあくまで作者による描写ですよってことだとしても「いや、この主人公なら感じてそうだよな、胃の動き」と思わせる何かがある。ところで私は軽度のADHDです。あくまで診断上は。
一人称で語られる世界の情景にしっかり濃淡があったり独特だけど分かりやすかったり、「小学校時代から国語も苦手で未だに漢字も手書きだとよく間違えるし最終的に学力不足もあって高校中退になる」という設定と噛み合わない描写力でありつつ、装飾している感じはまったくしない。本当に作者による言語化なのか判断に迷う。そういうところがすごい。
で、『桐島』なんだけど、こちらは数人の高校生がそれぞれ章ごとに一人称で語る話。人によって桐島との距離感がまったく違うから中には「桐島」のことは一行しか語らないこともある。それはさておき、全員が一人称視点で、違ってくることと言うと桐島との交友度と一人称(私、あたし、僕、俺)なんだけど、描写もその人物らしいもので留まっている。十七歳、高校二年生の話だし、スクールカーストがテーマの話だし、高校という枠組みの中でものごとを完結させていく以外どうすれば良いのかわからないしそういうもどかしさを描いた話でもあるから一人称=その人物の能力の範囲内での描写が好ましいということでもあるだろう。
たとえば『推し』では一人称の文体の中で主人公が母親や友人のことを「彼女は」と表現したりするけど『桐島』でそれはない。母親のことは「お母さん」だし友人はどこまでも「あいつ」「(名前)は」で、「桐島、部活やめるってよ」の調子そのままでモノローグも表現もまとまって物語は進む。そして終わる。登場人物の感覚を作者が言語化した印象は全く無い。言語化しないままいかにも拙い十七歳たちを描ききったところに『桐島』の良さがあるとも言える。
結局、文章を一人称にするか三人称にするか決める根拠って何だろう?と改めて考えた。
『推し』のギャップに気づいたあたりで「三人称で書かなかったのは何故なんだろう」と思ったりもした。ラストまで読んでそのギャップがすごく良かったから一人称で書いてくれてありがとうとさえ言いたくなったけど三人称視点のバージョンも読んでみたくなる。『推し』なら。
って書いてて『推し、燃ゆ』なんだよなー、タイトルが。と気づいた。桐島、部活やめるってよ、というセリフは本文中には出てこない。でも誰かがそう言っても全く違和感がない。『推し』の主人公ちゃんは少なくとも「推し、燃ゆ」とセリフでは言わないだろう。言わないけどネット上のコミュニケーションのスタイルで書きそうではある。『桐島』がまだギリギリガラケーの時代で(初出が2010年)、『推し』はスマホなしでは進まない去年、おととしぐらいの現代という差もあるからそこを念頭に読み比べるのもアリなんじゃないだろうか。再読するなら。
そんなこんななくっそ長いだけの下書きなのでオチはない。

220822 1335
感想


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