さけびの塔語
180525 2159



私だけの部屋。
悲願であったそれをついに与えられたのは、中学二年生の夏だった。
同時に手に入れたのは、私だけのゴミ箱。
正確に言うと、兄と同室だった数年前までは、私もそれを使っていた。
家の改築にあたり兄の部屋も模様がえがなされ、不要となったゴミ箱がまわってきたというわけだ。
黄色の地に黒い市松模様。
サーキットをモチーフとしたそれは、恐らく兄の好みを優先したものだったのだろう。
けれど、私の趣味とは言い難かった。
かといって中学生の乏しいおこづかいでゴミ箱を新調するのもばかばかしい。ほしいものは他にたくさんある。
私らしさを意識した部屋づくりの中でそれは確かに浮いていたが、所詮はゴミ箱。
なるべく隅に追いやってお役目を果たしてもらう時以外は見ないふりを決めこむことにした。
それから二年後。私はイギリス留学に飛びだした。
私だけの部屋で過ごしているうちに芽生えた宿願だった。
約一年を過ごして帰国を間近に控えたころ、なにげなく立ち寄ったアートショップで、あるポスターに目を惹かれた。
「バベルの塔」
ブリューゲルが描いた、旧約聖書の一場面。
ふと思いついた。
これをあのゴミ箱に巻きつけよう。そうしてあの安っぽい柄を隠してしまおう。サイズもきっとちょうどいい。どうせゴミ箱に貼るのだから折って持ち帰っても問題ない。何よりこの絵がすばらしい。
そんないきさつを経て、バベルの塔は私の部屋のゴミ箱となった。
その後、すぐに大学進学に伴って一人暮らしを始める時も、このバベルの塔を持ち運んだ。卒業後、紆余曲折あってまたアパート暮らしを始める時もバベルの塔はやはり移転された。
そして更に引っ越した先の今の家にも、バベルの塔はそびえている。
ところが、最近になって崩壊の兆しが見えはじめている。
昨年から飼いはじめた猫があろうことかトイレの後にこの塔に爪を立ててで手を清めるため、端から少しずつはがれてきているのだ。
バベルの塔の崩壊。
いや、もともと絵画の中では塔は崩壊している。
つまり、バベルの塔の崩壊の崩壊の序曲だ。
この猫はネブカドネザル王の如く戦慄しはしないのだろうか。
我は何ということをしてしまったのかと。

旧約聖書によれば、バベルの塔は人間の傲慢を象徴しているのだという。
もっと高みへ、もっと富の証をと傲岸という名の煉瓦を積み重ね至高者を気取った結果、唯一絶対であるべき神の怒りに触れ、崩壊の憂き目を見た。
そればかりか、崩壊以前は地上の人間はたった一つの言語を話し意志疎通をごく自然に行っていたのに、それすらも取り上げられてしまった。
統一言語を失った人間たちは、バベルから離れて、世界中に散らばって行った。
再会の見込みもなく。
また、再会したとしても、会話が成り立つ可能性も、極めて少ないままに。

全人類が同じことばを話し、同じ価値観のもとに互いに理解しあえる世界。
それがかつて存在したのだとすれば、まさしく神意であっただろう。
しかし少なくとも今の私は、自らの意志でカトリック教徒となった私は、それを良しとしない。できない。
なぜか。
自由や知性を与えたのもまた神であるのなら、懐疑的であることの何が悪いのかと問いたい。
私もまたバベルの住人の一人。
そして神が見離していない者の一人でもある。
(教会組織には恐らく完全に見離されているが全然まったく大したことではない)

人はさまざまなことのために、さまざまなかたちで、さまざまに試行錯誤をくりかえしている。
そのために夢をみたり、工夫をこらしたり、あちらこちらをさまよったりする。
そんなときに壁となるものがひとつもなかったら、いつ途方に暮れればいいのだろう。
どこで涙の味を知ればいいのだろう。
どうやって歯を食いしばって、はじめて歯の強みや硬さを知ればいいのだろう。
何にでも終わりは来る。それがよいかたちであれ、後味のわるいものであれ。
けれど、それまではちょっと不遜なくらいのほうが、崩壊の瞬間に見えるものが教えてくれるものは多いのではないか。
もちろん、落ちるときは高ければ高いほどいい。
きっと遠くまで視界がひろがる。
そしてたとえ塔の頂点にいても、死ぬことはない。
せいぜい、経験したことを人に伝えることばに迷うくらいだ。

私だけの部屋。
私だけのゴミ箱。
私だけのバベルの塔。
そう思っていたのに、そうではなかったと知ったここ数ヶ月。

ようやく突きつけられた。
私だけ、に慣れすぎていた。
共有という努力を、忘れかけていた。
でなければ、私がこんなにも必死になっていることばは、いったい何のためのものなのか。

私だけのものがあるとすれば、私の部屋にある、バベルの塔の下の、そのゴミ箱の中身。
それがすべてだろう。
そんなものはさっさと指定のゴミの日に出してしまおう。
そうしたら、からっぽのゴミ箱の中に、ああでもないこうでもないと悩んだ末に今は不要と王命さながらに決めたことばのいくつかを、放りこんでやれる。
いびつな放物線とともに。

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