三人のシナトラ
151108 1800



自分なり、というのは、案外よろしくないのかもしれないなと思った。
それは先月のはじめだったか、9月のおわりだったか、そのころに。

自分ひとりのことなら問題はない。
むしろ徹底的に、自分なりのやり方をつきつめていった方が良いのだろう。
でなければ実力というか、できる範囲のことすらわからずに、遠からず途方に暮れることになる。

けれど、人と向きあうなり関わりを持つ時には、それは通用しないと思った方が良いのではないか。
もしかして言うまでもないことなのかもしれない。
でも私はなかなかそれを知るに至らず、妙にからまわってしまっていたのだ。

私は私だとか、これが私だとか、それも悪くないとは思う。
でも、ある程度の覚悟は必要なのかもしれない。
あなたの言う、あなたの個性や、方法や、信じて譲らないことや、心づもり。
それらを私は残念ながら理解できないし、共感もできません。
と言われても、否定されたと騒ぐようではみっともない。
結局のところ自信なんかまるっきりな無いんじゃないですか?と問われて、どう答えるかが見ものではある。紅茶でも飲みながらのんびり見守りたい。
とはいえ、大抵の人は、その自分なりをやっているのだろうとも思う。
正確に言うと、自分なり以上のことなんて、そうそう出来やしない。
他人なりをやってみても、きっと居心地の悪さにとらわれるだけだろう。そもそも他人なりとは何だという話になる。
みんな、それぞれ、自分なりの考えで語り、自分なりの言葉で伝えようとし、自分なりのやり方でものごとを片づける。
自分なりの好みで選び、諦め、断り、決める。
人間の数だけの自分なりが世界を構築しているといっても過言ではない。
せめぎあい、ぶつかりあい、それでも何とか折り合いをつけながら、それで世の中がまわっているなら、私が私なりの違和感で杞憂しても仕方がないことなのだろう。

でも、私自身は、その自分なりというものをちょっと見直してみたいな、と思うのである。自分なりに。
それほど当たり前のことなら、逆の視点から見つめてみたくなるのである。自分なりに。
今後の人間関係はそれを基にして進めていきたいと漠然と考えているのである。自分なりに。

あまりにも当然で簡単なことほど、疑ってみる価値はあると信じてやまないのである。
自分なりに。

真剣に話をしていても、どうしてか通じあわない、何かしらねじ曲がった論調になる時は、多分この自分なりが、人間の口よりもよほど雄弁だからなのかなと、そう感じることがしばしば。
単純に相性が良くないとか、性格があわないということも勿論あるし、どちらか、あるいは両方ともそもそも何か間違っている、その可能性も決して忘れてはならないが、せめて会話の間ぐらいは一抹の希望に賭けておきたい。
私はもともと、人間は本質的に分かりあえないものと思っている類に属している。
別にことさら絶望している訳でもなく、ひとりひとり違う存在なので、はたして分かりあう必要があるのかなあ、別に分かりあえなくても共存も共有もできるからなあ、というくらいで、とにかくそのあたりを重要視していない。それどころか相違が楽しくて面白くて、分かりあう努力なんて何だかもったいないから、したくないのである。
一方で、世の中には、分かってほしくてたまらない人がいることも知っている。
しかし、とにかく分かりあいたくて一心にあがいている人も存在するということは、ちょっと見落としていたようだ。
私の未熟さが浮き彫りになった瞬間であった。

会話の上で私が持つ希望というのは、それぞれだよねと緩やかに認めあうと言うのか、許容することだった。
後で「あんなのおかしい」と影に日向に言われても別に構わないので、せめて卓を共にしている間は、というくらいのこと。
両者ゆずらずの討論も実は好きなのだけれど、やはり疲れはするし、あまりめでたく集束することもないので、もうちょった勉強して今より懸命になれるまでは控えておこうと思っている。
が、そんな私なりのささやかな望みさえ「分からない、分からないことを分かってほしい、分かりあいたい」と断じられるとは予想だにしていなかった。
そこで「分かった、分かりあうために私は私なりを捨てます」とその場しのぎでも言えたらどれほど楽なことか。
そんな嘘はつけないので、私は私で私なりの見解を示したりするから泥沼にはまるのである。

ちょっとだけ賢いふりをしてひととき私なりを忘れ、とりあえず聞くことに集中してみると、その人はその人なりのことしか言っていないことに気づいてしまう。
その人なりなので、本意を語る時の表現も独自のもの。
何を言っているか判然としないので何度も聞き直さなければならないし、八割がたこちらが誤解しているのではと疑い続けなければならない。遂には自虐に陥るほどに。
それではやはり伝わらない。伝わってこない。
汲みとってみて正解だとしても、何か無性に虚しい。

ひとは、結構、とにかく何かを言っていたい生き物のようだ。
つらいとか、さみしいとか、嬉しさも、よろこびも、愚痴も、心の中に溜めておくだけでは足りずに、どんどん知ってほしくなる。
それは私も同じ。
そしてそれぞれに語る手段がある。
会話、文章、歌、ものを作ったり、そこで人生設計を用いる人も、時に暴行に走る人もいる。
ネット上の祭りや炎上に乗っかっての声高な主張に特化した人も、たぶん予想以上に沢山いる。
何であれ、その根っこにあるのは、自分なりの正義を、思考を、努力を、苦労を、願望を、聞いて、知って、わかって、肯定して、というもがきに他ならない。
それを大体みんなが一様に、自分なりの方法でやるものだから、そこかしこに奇妙な対立が起こる。
賛同を求める時に必要なはずの謙虚さがどうにも見あたらない。
理解を求められている側にも、大切にしているものが他にちゃんとある。わざわざTwitterや何やらで口にしてはいないこと、沈黙のなかで守り育てているもの、誰にも踏み入れられたくない聖域がある。
そういうことを明らかにしないことが間違いのもとだとは、私はまったく思わない。
あなたに何かがあるように、私にもそれがある。中身が違うだけのこと。
それがゆえに相手の言い分を全面的に受けいれることはしかねる。
ということもあるのだと理屈でわきまえておかないと、非常にややこしいことになる。

では、自分なりと、その人なりを、なるべく仲よくさせることができると仮定して、そのためにはどうしたら良いか。
ゆっくり時間をかけて考え、思いあたった。
日ごろから引き出しの中身を増やしておくと、ずいぶん役立つのではないか。
自分なりのやり方だけで押し通すことは、いわば、それまでの人生において勝手にぱんぱんでごちゃごちゃになった自分だけの引き出しで勝負するようなもの。
その引き出しをひとり静かに開けて、今後は努めて意識的に、他者の価値観や方法論みたいなものを少しずつ足していく。
寝かせて、なじませ、風を通し、適度に自分のものにしていく。
この引き出しは四次元空間なので、いくらでも入ります。遠慮することはない。
時々ちょっと整理をして、何がもとのかたちで残っているか、はたまた変化したかを確認する。
何も起こっていないものは、自分に必要かをよくよく考えて、何なら自分なりに作り替えてしまえばいい。
もちろん、これまでありがとうと捨てたっていい。
引き出しに納めた時点で所有権は我がもの、でも出典への敬意は忘れずに。
ということを繰り返しくりかえし続けていけば、他者を前にしても自分なりのことしかできない人間に遭遇したところで、あまり圧倒されたり揺さぶられたりせずにいられるのではなかろうか。
後は、一応、何だかもうどうしたものかなという様な人の言い分も、最低限は尊重すること。
少なくともその努力はしてみようとすること。
だけど自分にも矜持があることを、決して忘れないこと。何なら相手に忘れさせないこと。

と、つらつら書いたことを試みるには、やはりどうしても他人という存在が絶対不可欠になる。
自分なりというものを作り上げたのは、思いがけず、私ではない多くの誰かなのかもしれない。
ただ私が気づかなかっただけで、存外、ひとの手が相当かかっているのかもしれない。
であればこそ、不器用ながらに、やはりより良いかたちでそれを使いたいもの。感謝をこめて。

でもやっぱりよろしくないのかもなあ。
何だか日和見主義だし、所詮は机上の空論なんだよなあ。
要は相手の立場になってみなさいということなのかもしれないけれど、そこの位置でもものを見るときに使うのは他ならぬ私のこの目なので、たぶん違う景色が広がっている気がするんだよなあ。
やっぱり想像力で補うしかないのだよなあ。
それにも限界があるからなあ。そこを越えたら自分がなくなったりしないのかなあ。まあ、今の自分にそんなに未練はない……かなあ。

と、ふらふら迷いながら、地道にやっていくしかない。
結局、自分なりに。

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