終わりのない白兵戦
150212 2359



聖バレンタインの祝日が間近にせまってきた。
だから何だと言うのだ。私には無縁のものだ。聖バレンティヌスへの信仰がなければ虚しい。すべてが白々しい。
最近ではお菓子業界のみならずアパレルなどでもバレンタイン商戦を展開しているとのことで、確実にクリスマスの二の舞を踏んでおいでだと冷静に軽く鼻を鳴らしつつひたすら傍観に徹する、これぞシングルの品格というもの。
が、今年は巻き込まれた。もちろん望んでのことではない。大抵のことは結果論でしかない。とはいえ、そこに我という個の意志が介在しない事態もやはりまた異様なのである。
つまりは喜んで飛びつきました、バレンタインの贈り物にどうぞという万年筆に。

念願の万年筆。
そのお値段、500円(税別)。

見るからに安っぽい素材のうえ、外観は白ときている。私個人の見解で恐縮だが、文房具で白を扱うことは存外に難しいのではないか。何の変哲もないノートだって今ひろく普及されている以上のものを作ろうとすると途端に価格が跳ね上がる。ペンなど書きものをする際に使用する用具となれば尚更のこと。多少は手に重くなろうともそれが質感となり得る程のものを使って初めて白さが生きる。何故なら白いインクを使用することは大変まれだから。白い紙に白い軸のペンから白でない文字が生み出される、その過程が美しくなくてどうするというのだろう。それが日常的であればあるほど洗練されていく。何も余計なことなど考えず単純に白で許される文房具といったら消しゴムぐらいのものだろう。それどころか消しゴムは白でなければ認めたくない。消しゴムこそ白の聖域である。故郷である。境地である。

さておき、プラスチック製の白い万年筆。ワンコインのこれをバレンタインの当日に頂いて素直に喜べるものなのだろうか。日本男児はそこまで紳士なのだろうか。それとも文房具店が何か勘違いでもしているのだろうか。謎はつきない。
ただひとつ、真実があるとしたら、私が得をした。これだけは絶対的に確かだ。

まだ使用には至っていない。
何しろ生まれてはじめての万年筆だ。そうおいそれとお近づきになれるものではない。
カートリッジを装着する瞬間を想像しただけで心臓が打ち震える。同時に、時代だか何だか知りませんがカートリッジ式の万年筆なんて受け入れるべきではなかったのですよ、あれではおかしな字になります、妥協しましたけどね、私は嫌いですよ、とのたまった某戯曲の修道女を連想し、はなから手間を省いて行こうとする己の罪深さに恐れおののく。

万年筆ではじめに何を書くだろうか。
様々なジレンマの合間にうっとりと夢想する。
そして毎度の疑問に辿り着く。
どうして文房具店などでのペンの試し書きは、ほとんどがうねうねと曲線なのだろうか。しかも、途中で一回転をさせたりそれを三回ほど繰り返した、あのもつれた波の様なラインなのだろう。
これまでに真っ直ぐな試し書きというとのを見た試しがない。
私自身も意識していなければついぐるぐると弧を描いてしまう。

日本語の文字はそれほど丸みを帯びているかと考えると、そうでもない様に思う。どちらかといえば四角ばっている傾向にないだろうか。年齢が上がればその分だけ縦線だの横線だのが否応なしに増えてゆき、しんにょうの書き方に悩んでいたころを懐かしく振り返る。
ひらがなを多用するのならば話は別だが、試し書きでミミズののたくりを表すすべての人がひらがな派だとは考えにくい。
かくいう私はひらがなが好きだ。適度にひらがなにひらくことで何らかの表現を無意識のうちに行っている。しかし、それと試し書きの間にはやはり何の因果関係もない。少なくともそのつもりはない。

ペンの書き易さを知りたいのであれば、普段から自分が最も馴染んでいる、あるいは適応していなければならない書体に基づいてペンを走らせなければ意味がない。
それなのに誰も彼もがうねる。波を寄せる。ちぢらせる。こよる。放物線になりきれていない何がしかを描く。
きっと、別段それを不思議とも思わずに。

手首の自由度をあれで測っている可能性は高い。直線よりも曲線の方が骨に伝わりやすいのかもしれない。それで負荷を測っているのならば納得がいく。

こういうことは誰に教わるでもなく、いつの間にか習慣づいてしまっていることだ。だからいちいち疑問に思う必要もない。
螺旋のDNAに逆らいようがない、パルスの上下を平坦にするわけにはいかない、それに似たような、あまりに多くの何かが、とてつもない数の当たり前が、解き明かされることを拒んでいる。

何故だろう。
せめて呟き続ける。
何故だろう。
期待をこめて万年筆を見つめながら、疑念がすこやかに育つように、願いながら。

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