春は出会いと別れの季節。それは嫌というほど分かっているのだけれど、いざ直面してしまえばこんな日なんて来なければ良かったのに、と思ってしまう。私は単なる在校生で、ひとつだけ年の違うあの人を見送る立場。せめて、同い年なら、なんて。抗いようのないことにまで文句をつけたくなってしまう。対面にずらりと並んだパイプ椅子へ目をやると、尊大な態度でもたれる財前さんはすぐ目についた。もう卒業してしまうというのに、変わらなくて、本当にいなくなってしまうんだろうかとまだ現実味がない。
「ーー式中の財前さん、ふてぶてしかったですね」
「うるせえな」
「あ、でも校歌をきちんと歌ってたのには好感持てました!」
「テメーは一体何を見てたんだ」
なんですかその質問。財前さんを見てたんですよとか言ってもいいんですか?なんてね。冗談でもこの思いは声に出してはいけない。折角の門出の日だというのに、私のどうしようもない想いを悟られて苦々しげな表情をされては困るから。でも、どうしても目に焼き付けておきたくて、式の間、視線はずっとこの人に向けられていた。気だるげな表情も、欠伸をかみ殺す動作も、何気ないものであるはずなのに最後だと思うとそれは途端に姿を変える。
「ついに卒業しちゃったんですね」
「……まあな」
「財前さんガラ悪いしもう一年いるとか無いんですかねー」
「はあ?いてたまるか」
「えー可愛い後輩がいるのに?」
「どこにいるんだよ」
「ここ、ここ!」
「自分で言ってんじゃねえよバカ」
そう言って財前さんは黒と金の丸筒で私を小突いた。中には丸めた卒業証書入っているというのに随分と雑な扱いだ。でも、大切にしているよりこうしてぞんざいに扱っている方が、なんか、らしくて。私に対する態度もいつもと変わらない。明日からもうこんなこと無いというのに。じわりと目頭が熱くなるのをごまかすように鼻をすする。『まだ、ここにいてください』本当に言いたいことは伝えたってどうにもならないことなのだ。
「つーか何で俺のとこ来てんだ、他のやつに挨拶しとけよ」
「だって財前さん、絶対すぐ帰っちゃうじゃないですか。真っ先に会っとかないとと思って」
「……終わったら帰るだろ」
「ほらー!感動も何も無いんですもん」
「うるせえな。大した思い入れも無いから良いんだよ」
「また、そんなこと…」
「……靭帯ブチ切れてロクに野球もできなかったんだから仕方ねえだろ」
そう呟かれた言葉はとても重たくて、怪我をした経験のない私が共感できるなんて到底口にできないことだった。でも、私はそんな財前さんを誰よりもずっと見てきた。見続けることを諦めなかった。自然と視線は財前さんの左膝に落ちて、靭帯断裂と言う言葉がちらつく。
「……あの、財前さん」
「……なんて顔してんだよ」
「だって、膝」
「はあ?もう直っただろうが。お前、いちいち俺の言ったこと真に受けんなよ」
「そうですけど…」
そう言いながら軽く左膝を曲げ伸ばししてみせる姿は決して普通の光景ではない。かつては直角すら動かすことができなかったのだから。
一年前の夏の予選、膝を抱えてうずくまる財前さんに対して私は何もできなかった。首にかけたタオルを握る手がかたかたと震えていたことを今でも鮮明に覚えている。活躍を期待されて入部して、私もそんな財前さんに憧れ、サポートする側ではあるものの野球部の門を叩いた。いわばマネージャーになるきっかけのような存在だった。それなのに、突然の怪我。完全復帰まで一年はかかるなんて三年間しかない高校生には残酷な宣告だっただろう。受傷当時は歩くのすら困難で、松葉杖だったことを思い出す。手術は魔法なんかじゃなくて、したからってすぐに歩けるわけじゃなかった。思い通りに体が動かずもどかしそうにする財前さんの姿を見るたびになんと声をかけていいか分からなかった。日常生活に戻るのにはそう時間はかからないけれど、野球を続けるなら話は別だ。
でも、財前さんは諦めなかった。以前と比べて、性格は変わったのかもしれない。でも、野球を続ける道は閉ざさなかったのだ。いくら気分が落ちているとはいえ不真面目に見えた姿にはじめは失望したけど、人に見られないようにリハビリに取り組んでいる姿を見て、本当に野球が好きなんだと思った。初めて見た時とは少し違うかもしれないけれど『この人を支えたい』という気持ちは揺らがなかった。だから、どんなに暴言を吐かれ、鬱陶しいと言われようともしつこく財前さんに関わりに行った。こうして現在そこそこの関係を保てているのは私の粘り勝ちだろうか。
「……もう一度、高校生活やり直したいとか思います?」
「別に。これはこれで良かったんだろ。ポンコツ同士ながらもクリスとやれたしよ」
「そういえば、青道との試合のとき、財前さん楽しそうでしたよね」
「……んなもん忘れちまったな」
「私は、楽しそうな財前さんが見れて本当に良かったです」
「みょうじお前さ、変わってるよな。マゾか?」
「ち、違いますよ、そんなんじゃないです!」
慌てて手をぶんぶんと振りながら否定をする。マゾ、はどうなんだろう。嫌だと思ったことは確かになかったわけではないけれど。財前さんがもう一度野球する姿や、楽しんでいる姿を見たら辛いのとかが全部吹き飛んだんだとか、言いたいことはたくさんあるのだけれど、そんなことを口にしてしまえば自然と私の好意がダダ漏れになってしまうから、続けて言い訳はできなかった。財前さんはそんな私を見てクク、と喉を鳴らして笑った後、ガリガリと頭を掻いた。
「あーでも、後悔してることはあるわ」
「後悔してることですか?」
「おう、なんつーか……悪かったな」
「え!?な、な、なんですか急に…!」
「んだよ、うるせーな」
「だって謝るなんて、らしくないですし…!」
「俺だって考えることはあるんだよ、黙って聞け」
「は、はい…」
そう言って財前さんは、先程私の頭をぽかりと叩いた丸筒で次は頬をぐりぐりと押してきた。重ね重ね言いますけど、それは卒業証書を入れるものであってそんな風にぞんざいにするものじゃないんですよ。そんなことするだなんて、余程言いにくいことなんだろうか。怒られたくないし、大人しく口を噤んだ。
「本当ならチームについて考えなきゃいけねえのに、怪我したことで自分のことで手いっぱいになってたことあったろ」
「……仕方ないと思います」
「お前にも、仕事ができねえだとか色々八つ当たりしたし」
「それは、別に…」
「そう言われたのを気にして影で努力してたのも知ってんだよ」
「………」
言い当てられて返す言葉もない。私は財前直行という存在をずっと見続けてきたけれど、まさか逆に自分の姿を見られているだなんて。それも、あまり見せたくない部分を。挫折に立ち向かうところなんて、可愛さのかけらもなかっただろう。なんとなくむず痒いような気持ちにさせられることにはお構い無しで、財前さんは話を続ける。その言葉のひとつひとつが、私の心の柔らかい部分にぷつり、ぷつりと刺さって行く。
「みょうじ」
「はい」
「マネージャーは俺たちみたいに勝つとか負けるとかで結果を出すわけじゃないよな」
「……はい」
「だから、やってて意義を見出せなくなることだってあるだろ」
「……それは、あります」
「でも、選手は本当にマネージャーが、お前がいることに感謝してるから」
「……感謝だなんて、そんな」
「時間費やしてまで、他人の為に頑張るなんてなかなかできないことだろ。今までやってきたことに誇りを持っていいと思うぜ」
「………っ」
「辛くなってもそれだけは忘れんなよ」
「ざ、ざいぜん、さん……っ」
「は!?…んだよ、泣くことじゃねーだろ」
ギョッとした顔で財前さんが私を見るのが滲んだ視界の中で辛うじて映っていた。泣くことじゃない、と言われても、自然と溢れてきてしまって、どうやって止めればいいか分からなかった。私だって笑って送り出せるものならそうしたい。けど、財前さんの言葉で穴が空いてダムが決壊したみたいにぽろぽろととめどなく目からあたたかいものがこぼれて行くんだから。財前さんはずるい。こんなこと言われたら感極まるに決まってるじゃないですか。辛かったことを見抜かれた上で、『自分の仕事を認めてくれる人がいる』『報われた』という幸福感が私の中を満たしていた。袖で目元を拭いながら嗚咽を漏らしている後輩の姿に財前さんは狼狽えているようだった。最後の最後まで迷惑をかけてしまうと思うと申し訳なくて、更に涙が溢れてくる。そんな中、ぽん、とごつごつした重量のあるものが頭の上に乗る。財前さんの手、だ。続けて二回、三回と上下する。頭をぽんぽんされていることを理解するのに少し時間がかかった。
「あの、ええと、」
「こういうの力加減わかんねえから…これであってんのか?」
「だ、大丈夫です…」
「そーかよ」
「ま、まさか財前さんにこんなことしてもらえるなんて、おもっ…てなかった…」
「お、おい、更に泣いてんじゃねえよ」
「うう…だってえ、卒業したらっ、財前さんいないじゃないですか…っ」
「はあ?別にいいじゃねえか。俺みたいなやついなくても」
「そんなわけないじゃないですか…っ!財前さんのばか…」
「おい、これ喜んでいいのか?」
「私にとって…財前さんは、ずっとずっと、憧れなんですもん…」
そう、言ったつもりなのだけれど。ずびずびと鼻水まで出てきそうなくらい涙して、しゃくりあげてしまうので、きちんと私の言いたい事が伝わっているかわからない。でも、財前さんは私の頭に手をやり、黙って聞いてくれていた。まさか、こんな風に接してもらえるだなんて。けれど、財前さんの胸に付いている赤い花を見ると、年の隔たりを感じてしまう。卒業生と在校生、先輩と後輩。越えてしまいたい気持ちもあるけれど、この関係だったからこそ見えてきたものもある。
「お前、本当よく泣くな」
「…もう、泣かないです」
「来年は、一番上だろ。チーム、支えられるのか?」
財前さんは怪我をしていても、皆に慕われていて、どこかしらスター性があった。そんな人がいなくなる黒士舘に不安がないわけじゃない。でも、三年間頑張ってきたこの人の前で「無理です」なんて口にしない。涙を吸い込んだ袖で、もう一度目元を拭いて、にっこりと笑う。それが私から財前さんへのはなむけ。
「絶対、強いチームにします」
「ははっ、そりゃあ楽しみだな。そうなったら見に来てやるよ」
「はい、待ってます!」
そうやって楽しそうに笑う財前さんの顔は、少年みたいで眩しかった。この人に憧れて野球部に入ってよかった。今まで、続けてきてよかった。これからも頑張ろう。そして、いつか胸を張って会える時が来たなら、その時は自分の胸の内を打ち明けたいと思っている。
「…辛くて、泣きそうになったら言えよ」
「私、やっぱり、財前さんが先輩で良かったです」
さよならをするのだけれど、ほんの少し何かが芽吹いた日、これが私の春。春を抱えて眠る
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タイトル@にやり
卒業式のお話になります。先輩と後輩ということで、はじめは哲さんのイメージでした。でも、卒業という場だからこそ普段は言えないようなことを言ってくれる財前さんを書きたくてこのようになりました。もっと表現力があればいい風になったかもしれないとかなんとか。
20140312 りりこ