お風呂上がりのロビーで先生と鉢合わせた。先生も私と同じように湯気を纏っている。
「朝風呂って久し振りでしたけど、いいものですね」
「そう言うけどお前さん寝てないんだろう」
「分かります?お医者さんだからですか?」
結局、昨日は先生とご飯を食べた後、部屋に戻ってまた研究レポートと睨めっこしていた。先生と居る間は風の音なんか微塵も気にならなかったのになかなかどうして煩くて。頭を掻きむしりながらああでもないこうでもない……。
更によく回らない頭は中途半端に過去の資料を蒸し返してくる。ただでさえ纏まりがない思考にどんどん不純物が混ざっていってしまった。
「今回のレポートは、強敵です……」
ワイシャツをだらだら上まで閉めながら、先生の隣へ勢いよく腰を沈める。いい具合に体温が下がってきてこのまま寝てしまいそうだった。ぼーっとする頭に先生がいきなりタオルを叩きつけてきた。
なんだ!?と声を上げることもできぬままわしわしと頭をかき混ぜられる。あまりに突然の事態にばたばた暴れていると、呆れたように言い放たれた。
「お前さん、私の事を親か兄かなんかだと思って自由にしてるんだろうが」
「あ、ええと」
「私だって危ないかもしれないぞ」
「それどういう意味ですか」
「だから……!」
先生は私の両肩をがしっと掴んで何かいいかけたが、深く深く溜息したかと思うと手を放して項垂れてしまった。一体なんなんだこのおじさんは。
勝手にああだこうだ言い出しそうな先生を放って、朝食のために広間へ向かうことにする。私の後をとぼとぼついてくる背の高い先生は面白おかしい。
私が白いご飯に卵を落としてかきこんでいる間も、のりをパリパリ千切っている間も、先生はこちらをえもいわれぬ形相で睨んでいた。いい加減何を言いたいのか気になるのだが、尋ねても押し黙るばかりだ。
「先生、いい加減にしないとチューしますよ」
「なんだって?」
「なんでもないです」
平気な顔をしてみせたけれど、実のところ、私は先生にドキドキしていた。昨日のあの言いぐさは一体なんだったんだ。『君と話すのは楽しい』だって?そんなこと言われて喜ばない人が居るものか。
先生のほうこそ、私を妹か何かだと勘違いしているのではないだろうか。考えれば考えるほど妙に腹が立ってきた。あれで私が平気だと思っているなら大人とはいえないと思う。
「ねえ先生」
「……なんだい」
「さっきのこと、なんでもなくはないです。私先生のこと結構気にしてますよ」
「……」
「なんとも思ってないおじさん相手に、少し長く一緒に居られることになって嬉しいとか、思いませんし言いませんよ。
というか、こんな小娘が、大人の男性に受け入れてもらって、憧れないわけないじゃないですか!わかっててやってますよね?」
「……それは、お前さんだってそうだろう」
「何がですか」
「見ず知らずの得体のしれない男に警戒心も持っていない。私が引こうとした線も気にせず踏み込んで来る。君は立派な志の学生なんだ、こんな大人に気なんて持つな」
「いつ踏み込みましたか?」
「私があくどい医者だと言ったとき、嫌われようとしても無駄だと言った」
先生が、なにか諦めたような瞳であのときを思い返すのが、私は嫌で嫌でたまらなくなった。
「私はあなたがどんな商売をしてるかは知りません。ただこの場に居合わせた隣人として、あなたを善人だと感じただけです」
「君は何もわかっちゃいない」
「それじゃあ何で私を喜ばす事ばかり言うんですか。先生こそ私をただ研究に没頭する学生だと思ってるんなら大間違いですよ。私だって、優しい事言われたら期待しますよ。好かれたいって思いますよ」
そこからは静かなものだった。二人とも無言で朝食を終え、それじゃあとだけ言い残して大股で部屋へ戻る。風が相も変わらず外で吹き荒れている。今度ばかりはそれを掻き消す先生の声も夢想することはなかった。
すっかり夕飯の時間も過ぎた。書き物机からゆっくり身を起こして、詫びなければと女将さんの居るだろう厨房へ降りていく。途中、洗面所の鏡を見ると、合間に少し眠ったはずなのにやけに疲れて見えた。
私が言った事は全部本心だったけれど、先生はそれで思い悩んでいるだろうか。それとも、全く気にもせず、今頃眠っているのだろうか。
「女将さん」
「あら、なまえちゃん。今日は少しでも眠れた?」
「はい……。あの、お夕飯食べられなくてごめんなさい」
「気にしないでね。残してあるの、お腹すいたときに言ってちょうだい」
女将さんは皺のある頬をにこっと上げて、私の顔を一撫でした。
「朝ね、先生と露子ちゃんの話聞こえちゃったのよ」
「あ……うるさくして、すみません」
「いいの。先生には、あれくらい言ってくれる人も必要よ」
「……そうでしょうか」
女将さんの優しい口調に、申し訳ない気持ちになった。どうしてか涙がでてくるようだった。
「死んだ息子ね、以前先生に手術してもらったことがあるの。肺の病気で倒れたところを、通りがかって助けてくださって。私が費用を尋ねたら、要らないって断ったの。
この村の事を知ってたのね。みんな開発で貧乏になってしまって、あの子が出稼ぎに来てたのだということも。
息子は建設会社で働いてて、いつかノウハウを習得したら、この島の港を改修するんだって言ってた。昔みたいに、漁船がたくさん出る豊かな港を夢見てた」
「……そうだったんですね」
「そうよ。ちゃあんと、先生は優しい人だから、人に優しくされていいのに。自分はその資格を持ってないって、昨日お葬式の後にも言ってたわ」
「……」
この民宿の料理は、山の素材を使ったものばかりだった。息子さんは女将さんの作る違った料理を夢見ていたのかもしれない。村に人が戻って、宿は満室、忙しく駆け回る母親の姿を見ていたのかもしれない。その夢も散って、どうしてこの女性はここまで優しいのだろう。
「息子がね、幸せだったからだよ。夢があったから。
今はそれも終わってしまったけれど、夢見てたからあの子は生き生きしてた。私も息子が見てる夢を見せてもらってたの。でも、ずっとそれじゃあいけないから、これからは私の夢を持たなきゃね」
姿は老いても、眩しい女性だと思った。それに比べて私は、先生にも女将さんにも手を差し伸べてもらってばかり。自分で決める勇気が無かった。
「……私も、夢があります。
ずっと不安で、苦しくて、このままでいいのか悩んだこともある。ブラックジャック先生はそれを掬い上げてくれたんです。そんな人なのに、好かれないように隠しているのが、悔しくって。朝だって、勝手な事をたくさん言いっ放しで逃げちゃったんです」
「きっとあの人も悩んでるのよ。なまえちゃんに掬い上げられていいのかどうかってね」
「……」
「馬鹿な悩みだと思うけどね、あの人も苦しい人生だったんだね」
女将さんが、ずっとやわらかい口調で話すから、留めていた涙も流れてしまった。あまりにも清い時間だった。