「ブラックジャック先生、ってどこか聞き覚えがあります」
女将さんが作った料理はいつもながら本当に美味しくて、ついつい箸を持ったままになってしまう。山菜の天ぷらに炊き込みご飯、おひたし、お味噌汁。手のかかった料理はどれも上等だ。
数日前から、お通夜にお葬式にと女将さんの家は大変な騒ぎだった。ふつうなら客がおざなりになっても仕方がない事態なのだろうけど、こんな時でも宿泊客へのもてなしをおろそかにしていない。
立派だと思うと同時に、目の前のこの人へも、興味が止まらない。
「でも、どこで聞いたかは忘れちゃいました」
「そのままでいいさ」
素っ気なく返事たまま箸を休ませないこの人は、驚くほど気持ちのいい人だ。見た目は確かにおっかないが、顔に傷があるくらいなら他にもそんな人は見てきた。
この分野の研究をしていると、ご老人を訪ね歩くことは多い。その誰もが老いてどこかを悪くしていたし、手足が無い、顔にできものがあるなんかは慣れっこだった。ことに、かつて公害のあった地域などは酷いものだった。
「みょうじさんはどういうきっかけでその道に入ったんだい。まだ大学は男社会だろうし、フィールドワークなんて親がよく許したね」
先生が疑問に仰るのは当たり前のことだ。今の時分でも女性は大学にあまり行かないし、教授も男ばかりなのは事実である。
私がそれなりの良い身分のお嬢さんだというのは着ているものや持ち物で判断したのだろう。それも合っている。親は医者と美容師で、両方うれっこなのだ。
学者になりたいと言えば猛反対を食らったし、東京に下宿先を借りるのも説得に苦労した。箱入り娘で育った分、知らない土地を歩き回らせるのも心配だったのだろう。
「大学は、結果を出せばそれなりに評価はくれますから私が頑張るだけです。親は確かに今でも納得してません。けど、どうしても学問のほうへ行きたかったから。親は関係ないですよ」
「若いのに立派に考えるものだね」
「先生だってそんな歳じゃないくせに……」
クスクス笑っていると、向こうも軽く息を吐いた。今のは、笑ってくれたんだろうか。だとしたら少し嬉しい。この短時間話しただけで、この人が合理的で頭の良い人だというのはわかる。そんな人だけど、冗談で笑ったりするのだ。
「それより、親御さんが医者なら、ブラックジャックに会ったなんて言っちゃだめだぜ。私はこの界隈じゃ腫物扱いの外道だからね。お前さん、もう外に出してもらえなくなっちまうかもしれない」
「どうしてそんなこと」
「私は医師免許もないし、患者にバカみたいに手術費をふっかける。何千万も、相手によっちゃ何億か取ったこともあるんだ」
「ああ、それで、もしかするとお父さんから聞いたことがあったのかな。でもそんなこと言って私に嫌われようとしたって無駄ですからね」
右手に持った箸を振りながら笑う。先生は、拍子抜けしたようにしばらく黙っていた。「お前さんは変な子だな」と言うのは聞こえないふりをしておいた。
夕食後、部屋に籠りきりに飽きてしまって、いくつか資料を持って共有になっているテラスへ出た。ロビーから差す光と月明かりで手元は十分明るい。
実のところ、煮詰まっている。状況が悪いわけでは決して無い。ここにやって来て十分な研究資料は集まったし、発見も多数あった。けれど肝心の文章になりきらないのである。日本語が下手なわけではないが、どこか情報過多な部分があって、纏まらない。
外に出してある木造りのベンチは私のお気に入りで、ここに来てからしばらくはもっぱら座ってお酒を飲みながら過ごすのが日課だった。座って、月や木の揺れ動くのを見たり、虫の声を聞いたりしているうちに不思議と筆が進むのだった。
今日もそれを期待したのだが、どうやら無駄だったらしい。風のあたたかさばかりが変わらない。
「こんなところに居たのかい」
「先生」
夕飯ぶりに見た先生は、すっかりくつろいだワイシャツ姿だった。慌ててだらしなく横たわっていた体を正して座る。
「親の前じゃあるまいし、楽にしなさい」
「いえ、その、私が恥ずかしいから……」
その辺に散らばっていた写真や原稿をかき集めていると、テラスに降りた先生が後ろからその中の一枚を取り出した。
「この写真は?」
「ああ……それは、以前ダム建設があった村へ行って話を聞いたときに撮ったんです。
村ひとつがダムに沈んで、みんな他の土地へ移り住むことになったんです。政府が家を建ててくれて、補助金もくれたんですけれど、かつてからの畑や田んぼも無くなってしまって、自給自足が崩れて。
今は皆貧乏で、若い人は出稼ぎで、その一帯はご老人ばかりでした」
そこに映るのは、新しい土地で新しい田を耕す村人たちだった。彼らの故郷は失われて、その後政府に貰った家すら売ってしまった人も居る。
「人が豊かになるために失われる豊かさってあるんですよね。私はそれが疑問で……納得できないことも沢山あるような気がするんです。
この漁村もそうで、明治時代に国の方針で港の工事をやったんですよ。工事の為に人がたくさん来て、商売も儲かって便利になりました。
けど何年も経つと、過疎になって、生態系も変わって、すっかり廃れました。元々人の手で作った小さな港にも、もう獲れる魚はいません。
いまはずっと遠くの海まで漁をする家も減って、漁業も祭事も衰退しました」
いつの間にか熱が入り、どんどん早口になっていたことに気付く。口を噤んで、赤くなる頬に手を当てた。ベンチの下に置いていたグラスを取って口を付ける。夜風で温くなった酒が、じんわり頭の凝りを溶かすようだった。
「すみません、こういう話になると止まらなくて……恥ずかしいです」
「いや。良い写真だ」
他にもあるのかい、と尋ねる先生。私はなぜかそれがとても嬉しくて、夜に響くような高い声で、ハイと応えた。