「黎明卿、血が落ちていますよ」


私はこの前線基地で、主に医務室に勤める祈手の一人だが、今までに一度たりとも、雇い主である黎明卿自身を診たことはない。私が治療するのは主に、黎明卿の意思が去ったあとの祈手の肉体だ。自我ある黎明卿が此処へ出入りするのは、保管してある記録を閲覧するためか、簡単な薬品を取りに来るためで、私に何かを委ねたことはただの一度も無かった。

この日、外の探索から帰った黎明卿から血の匂いが香った。当然、彼の外套から滴った血の数滴も、原生成物の返り血だろうと思った。だから私は、とても気楽にそれを指摘したのだけれど、黎明卿はえらく落ち込んだ様子で「おや」と息をついた。

彼が自ら診察台に腰掛けるのにも驚いたが、その分厚い外套を徐ろに脱ぎ、身に付けている装甲を外し始めたところで、ようやく私には現実味が押し寄せた。血を流しているのは彼なのだ。

診察台に近づき、黎明卿の血で滑る手袋を退かせ、自分に任させる。じっとりと水分を含み重い彼の腕を、肩を貸す形で私の背に回させ、彼の脇腹の留め金を続きから外した。装甲を脱がせ、傍に置き、ようやく彼の身体を診る。このときにはもう、「あの黎明卿が」だとか、「どうして」だとかの思考は頭になく、あるのはひたすらな焦りと不安だった。

黒色の肌着に紛れて分かりづらくはあるが、まるで全身が血で濡れていた。手で触れるとそれは如実にわかり、私は慌てて肌着も脱ぐように言いかけたが、こう血で張り付いていては、へたにすると傷口に障るかもしれない。


「流血は止まっているかと思ったのですが」


呑気な口調の黎明卿はさておき、私は仮面に取り付けてあるレンズの歯車をカチカチ回して灯を点けた。すぐに患部はわかった。ほとんど全身だったが、特に背中には無数の、真新しい裂け傷があった。未だ血が滲み出している。それが伝って床に落ちていたのか。

私は綿を押し当てながら言う。「卿、痛覚もほとんど失っているんですから、憶測で言うのはあまりよろしくないですよ」


肌着を鋏で切りゆっくりと剥がし、傷口の周囲の血を拭き取る。消毒をしながら、先程の彼の発言を咎めた。今までの態度からして、私が今日これに気が付かなければ、黎明卿は治療も蔑ろにしてさっさと私室に戻ってしまっていたのだろう。

長年ゾアホリックを使いこなしているように思える黎明卿だが、実はこのように怪我を負うこともしばしばだったのかもしれない。これは外傷というよりも、筋肉が自ら捻じ切れたというような感じだった。

無限に傷を負い、何度も死亡体験をしている黎明卿は、良くも悪くも痛覚を克服してしまっている。それが鈍くなると、肉体の使い方にも歯止めが効かなくなる。腕の振りかぶりにさえ、痛みによる躊躇がなくなれば簡単に脱臼してしまうだろう。力加減を間違えて自傷してしまう点では、五層の呪いと似ているのか。

私の焦りや不安も、この人は認めていることだろう。その上で、本心から聞き入れる気はないのだろう。それだから私は彼を信頼している。いつか我々の居ない場所で、この人はきっとやり遂げるのだと信じられる。

卿が私に求めるのは献身だけだ。そして私が捧ぐべきなのも、この身だけだ。労働力、生産力。この人の資源たる肉体。

私はそれを知っていながら、まるで個人であるかのように振る舞い、卿もまた常にそのように扱う。実態がどうであろうと今この時、私と卿は会話をしている。私の視界を覗き見ながらも、精神隷属器を行使しないこの時間が設けられていることは、つまり尊重を意味するのだろう。

この人は未だ人間だ。人間であろうとしている。他人との関わりを尊ぼうとしている。そうである内は、私も精一杯の不遜な態度を取るべきだろう。

「悪事が知れてしまった子供の気分ですよ」と肩をすくめて言った黎明卿に、私は大げさに溜息をしてみせた。


「今日は時間が惜しくて。なにしろとても状態の良いサンプルを採集できそうだったので」

「……あなたがするべきなのは、その好奇心を抑えてすこし内省的になることです。代わりの身体は無数にいますが、あなたの人間性は日々削れている。その経過を知る者がいなくては、いつか事故になりかねない」

「君の献身に感謝します、ナマエ。確かに、限度を設けなければならないようです」


それからの黎明卿はいたくしおらしいものだった。「これまでもこんな傷を?私に隠し通したまま死んで、死体ごと証拠隠滅を?」くどくどと問い詰める私に適当な相槌をしながら、彼は終ぞ反論も抵抗もすることも無く縫合を受けていた。


「抜糸までは他の身体を使われた方が良いでしょう。仮にこの肉体を労るならですけれど」

「彼には苦労をかけてしまいますね」

「……本当にそう思っていますか?」


言ってしまってから、確かめる必要もないものを確かめようとしてしまった己に気が付いた。これは要らぬ不安に違いない。皮肉と冗談の膜を被せた私の本心のようなものが、ふと顔を出したのだ。

私は彼との人間としての関わりを、一秒でも長く引き伸ばそうとしているのだろうか。無意識なその愚かしさが伝播してしまった気がした。油断だった。ああこれだけは、複雑な答えは要らない。

しかし卿は言った。明らかで大いなる虚言を。「本心ですとも」と。まるで真心ある青年のような楽しげな声色で。

私は心底、安堵した。

「もう二度とあなたを診たくはないものです」と、小声で返した。痛いほどの本心だった。あなたの油断など見たくはない。どうかそのまま、ゆるやかな喪失を遂げてほしい。そうして皆を置き去りに滅ぼしてほしい。いつも私の知らぬ場所で、血を流していてほしい。

あなたは私の遠く及ばぬ領域の存在なのだと、信じさせてほしいのだ。