「ごきげんよう、不動卿。そして殲滅卿も」
俺の口が、俺の意図をまったく無視して動く。疲労と痛みと失血でまともに動くはずの無かった腕が、胴が動き、地面にへばりついていた身体を起こした。
黎明卿だった。彼は五層に居るはずで、こうして上層の祈手と同期するのは、精神に狂いが生じるリスクがある。にも関わらず、この死にかけの身体には今、新しきボンドルドの精神が宿っている。
彼は、俺の浅かった息をも克服し、無理やりに肺を動かす。当然吐血することになったが、口の端からだらだらと血を垂れ流しながらも、あの穏やかな口調で語った。
「この祈手は私にとっても特別な子です。今失うわけにはいきません。それに、あなたがたも限界でしょう。この子と遺物は一旦諦めていただいて、今回はお引き取り願えませんか?」
「ボンドルド……。こんな危険を冒してまで、祈手一人を逃そうなんて、とてもろくでなしがすることとは思えないね。何を考えてんだい」
「ただこの子がかわいいだけですよ。ああ、足も速くて気に入っていたのに、切り落としてしまったんですね。残念です」
黎明卿は肩を落としながら、切りっぱなしになっている俺の両腿を見下ろした。俺は意識の深い部分が悲しみで満ちるのを感じた。ああ彼は、俺の体が欠けたことを悔やんでいる。しかし口調にその悲しみはまるで表れない。飄々と、淡々と、不動卿に言葉を投げかけている。
「不動卿。あなたと、このミョウジの絆はこれきりです。決別の機会は与えました。……さあ、帰りましょうミョウジ」
不動卿が何か言うより先に、黎明卿は右腕をすっと伸ばし、手首の装置から遺物を発動させた。黒い繊維がたちまち伸びてゆき、穴の淵へ接着した。途端に身体がそちらへ引っ張られる。
不動卿と、奥にあった殲滅卿の姿が遠ざかる。彼女たちももはや追おうとはしなかった。遠景になるにつれ、我々が殺した彼女たちの探窟隊の遺体が散乱するさまがよくわかった。
五層の入り口には祈手数名と、仮面をした黎明卿が待ち構えていた。俺がそこへ滑り降りるなり、彼らは俺の切断された腿の処置をし、輸血を始めた。
黎明卿は冷たい岩肌に寝る俺のもとへ屈んだ。そして、厚い手袋をした手を、俺の剥き出しの頬へと当てた。
「ミョウジ。よく頑張りました。白笛二人を相手取って、よく私の元へ帰ってきてくれました」
「……れ、は……、」
それはあなたが迎えに来てくれたからだ。そう言いたかった。だけれどあくまで、彼は俺の精神と肉体が再び五層へ帰ったことを、心から喜んでいるようだった。
「あなたが不動卿のことを時折り思い出し、罪悪感に暮れていたのは知っています。けれどそれはもう過去のもの。あなたと彼らとの絆は断ち切られた。あなたは進んだのですよ」
「……た、……で、すか」
「ええ。あなたを四層へ向かわせたのは、そのためです」
「……り、とう、…ます」
「私こそ感謝しなければ。ミョウジ。結果的に、あの場の特級遺物を守ってくださったのはあなたです。私が同期できるまで、よく耐えました」
黎明卿が俺の頭を撫でた。
俺はその優しい手つきを感じながら、ああそうか、と思い至る。あの場で時間を稼ぎ得る祈手が居たとしたらそれは俺だけだったのだ。
層の間の力場が濃いせいで、黎明卿自身が上層へ至るにはさまざまな障害がある。ゾアホリックの行使にも条件がある。だから、不動卿らと因縁のある俺に白羽の矢が立ったのだろう。
今回、きっと黎明卿は本気で遺物回収ができるとは思っていなかった。せいぜい不動卿の隊を減らす程度だ。とにかく遺物が手付かずであればいい。今回を凌げば、また準備ができるから。
そうであれば、結局黎明卿が、俺をわざわざ回収する意味はどこにあったのだろう。脚もなくなった。不動卿との絆も切れ、もう切り札にはならない。死にかけだし、また動けるようになるには時間もかかる。俺をあの場に置いておいても、不動卿と殲滅卿は自分らの赤子を優先して、遺物を置いて地上へ帰っただろう。
それをわざわざ、俺には使えないファーカレスまで装備させて、きっと初めから俺だけはここへ帰ってくることになっていた。それはなぜだ?
「私はあなたを気に入っていると言いましたよ」
俺の思考を読んだかのように、黎明卿はどこか楽しげに言った。頭を撫でていた彼の親指が、俺の眉を、鼻筋を、頬骨を辿る。
「あなたは、かつての私によく似ているから……と言ったら、あなたには不快でしょうか」
どきりと、弱まっていた心臓が跳ねたような気がした。この口ぶりは、きっと俺の顔のことを言っている。俺の顔立ちが、すなわち最初の黎明卿に似ているのだと。
黎明卿の立ち振る舞いや言動は、つとめて理性的だ。それはいつ何時も崩れることはない。それでも、その思考の奥底に、かつての姿を忘れることへの恐れがあるのだとしたら。
俺はこの人の側にいなければ。
「……なたの、もとへきたのは、おれのさだめです」
辿々しくも、はっきりと発声する。やはり息を使うと肺から血が溢れたけれど、確実に聞こえただろう。
黎明卿、俺が他の白笛の元を離れ、あなたに惹かれ深層へ至ったのは、必然だったのです。あなたが俺を求めていたから。
「……感謝します、ミョウジ。ほんとうに……」
黎明卿は、霜の張る地面に片手を付き、もう片手を俺の頬に添えたまま、背を屈ませた。そして俺が驚いている間に、その仮面の口許あたりを、俺の額につけた。ひやりとした温度を感じた。
「あなたさえ良ければ、たまに顔を見せてください」
そんなことを俺に伺わなくても、同期して仮面を取って、いくらでも鏡を見たらよいのに。俺は言わなかった。
かわりに、俺の中の全ての熱と愛を込めて、いちどだけ、長いまばたきをした。