※ゾアホリック使用前の黒笛ボンドルド
※なにもかも捏造
自分の手を見下ろす。爪の間には土が詰まってすっかり汚れている。
嫌な湿りを帯び鉄の匂いさえする手を、ボンドルドはそっと取り上げた。彼は片手で器用に水筒の蓋を開け、汲んできたばかりの水で洗い流してゆく。
私はそれをぼうっと受け入れる。ボンドルドと直接素肌が触れ合ったのはこれが初めてだと思う。先刻、手を引かれて走った時にはお互い手袋をしていた。彼は体格も大きく、その手は勿論、私のものより広かった。
ボンドルドは、苦笑の入り混じったような声色で「このようなことは、あなたにして貰うことでは無かったのに」と言った。その口ぶりには少々自虐的な色を含んでいるようにも思えたけれど、彼が悪びれる必要はない。
我々の足元にはいくつもの土の盛り上がりがある。そのひとつひとつに、かつては同じ探窟隊だった者たちの遺体が埋まっている。
ボンドルドが彼らを殺し、その後に私が埋めた。彼は私を関わらせまいとしていたようだったが、どうせ生き残ったのはお互いだけなのだ。私は半々で手を汚すことにした。
我々の探窟隊は、ここに至る途中で、原生生物の群れとかち合ってしまった。
隊で行動するときには、索敵や警戒を厳とするものだが、深層に潜るまでに、我々の隊には疲労と空腹が蔓延していた。だからきっと、あの惨事は避けられなかった不幸だったのだ。
陣形上、偶然背後に居たのがボンドルドだったお陰で、私は一大事を免れた。ボンドルドは黒笛の中では大人しく、あまり目立つような男ではなかったが、察しの良さと決断の早さは誰よりも鋭かった。
結局、場から一早く逃げ出せた私たち以外は、原生生物に食い荒らされてしまった。奴らは偏食で、動物の内臓しか食べない。それもあちこち良いところだけをつついて去ってしまうものだから、襲われた中には意識が残ってしまう者も居た。
ボンドルドはそういった探窟家たちの息の根を、ひとりひとり丁寧に止めていった。どうせ絶望し苦しんで死んでしまう命なら、意思あるうちに終わらせた方が良い。そう淡々と言うボンドルドを恐ろしいと思わなかったのは、この状況であれば自然なことだったろう。
私は、自分の遺物頼りに十数もの穴を掘ったが、そこへ寝かせた遺体に土をかけることだけは素手でやった。
オースにおいては遺体は火葬しアビスに撒くのが通流だが、どこか外国の土葬文化ではそういうふうにするのだと聞き齧っていたのだ。間違って覚えているような気もする。とにかく、私なりに真剣に弔おうとすると、そんなような事になった。
ボンドルドは、私が妙な拘りを起こしてやたらと丁寧に埋葬するのを、周りを警戒しつつ見守っていた。そして、私が隊員の埋葬を終えたところを労った。
彼は私の手にこびり付いた土を全て洗い流し、強い酒をまぶして消毒までさせた。先刻死んだ隊長が隠し持っていた酒瓶から拝借したらしい。嗜好品を隠し持つ周到さがありながら、彼は自分の隊をほとんど壊滅させてしまったのだから始末が悪い。
ボンドルドは、私が脱いだ手袋まで丁寧に付けさせてくれながら、ぽつりと尋ねた。
「なにか特別な信仰でもあるのですか?あなたの弔い方には、アビス信仰とはまた違った趣を感じました」
「そういうわけじゃないけれど」
「……あなたは元々、宗教の類には懐疑的でしたものね。こういうときにこそ、原初的で純粋な祈りが生まれるのでしょう」
ボンドルドは感心を隠さなかった。彼もまた、他の隊員と比べればアビスへの信仰心は薄いように感じていたので、そんな話題を挙げたこと自体、私には意外だった。
「ボンドルドは神やアビスには祈らないよね」
「ええ。意味がありませんから。しかし、人が人へ思いを託すことは、きっとその範疇ではないのでしょう」
彼は平然と言った。私はボンドルドのことを、てっきり淡白な探窟家と思っていたので、素直に驚いた。
「あなたでも誰かに祈ったことあるの?」
「……強いて言うなら『自分に』でしょうか。それに、祈りではなく、決意という方が近いように思えます」
「例えばどんな」
「ここから無事に地上へ戻るためには、あなたという他者の力は不可欠です。ですから、あなたを失わないよう、私の経験と勘に祈りました」
それまで私には、ボンドルドが他者を頼るような人間には見えなかった。誰かが助けずとも、彼はいつも隊の一番後ろを黙って付いてくるような男だったからだ。時々それをのろまだとか言う隊員も居たが、彼が反論してみせたことは無い。
怒ることも、訂正することも、はたまた肯定することも無かった。ボンドルドはいつでも静かで、何を考えているか分からない探窟家だった。
てっきり他人への興味すら無いのだと思っていたから、私はボンドルドに助けられたという事実を、今になって強く意識した。
そして、「もしかすると彼は、私を選んだかもしれない」とすら思った。これは危険な見当違いかもしれなかったが、できるだけ努力しようと決意するには充分だった。
「絶対帰ろうね」
ボンドルドが付けさせてくれた手袋をした手で、私は彼の両手を握った。指を組み、彼の手を取り込むように、強くつよく握った。
「……この手の形にはどんな意味があるのですか」
「知らない。でも、絶対帰ろうってあなたに誓おうとしたらこうなったの」
おおげさだったか、と慌てて離す。しかしその手は、ボンドルドに素早く掴まえられてしまった。
「では私も、同じように誓いましょう」
薄く笑う彼の瞳にどきまぎした。素手のままのボンドルドが、確かな力を以って私の両手の上から指を組んだ。そして言う。
「あなたを守り、必ず生還します。……あなたも、私を守ってくださいね」
ボンドルドは、握り込んだ私の手を口許へ運び、音のないキスをした。それはとても、とても神聖な誓いだった。
私の中からすべての言葉が蒸発していくのを感じた。彼の目を見つめる。彼の深い色をした瞳が私を映していることだけが、この世界で、この穴の中でひとつだけの正しいことだと思えた。