身体が痺れている。感覚が遠い。
まるで自律していない四肢をむりやり動かしてみれば、妙な慣性を含んでぶらりと揺れた。もはやこの状態で何かしようなど思わない方が良いだろう。何か掴めば取り落とし、歩こうとすれば踏み外すのが目に見えている。
「お前、もう中途半端な毒でラリんのやめろよな」
診察を引き受けたグェイラの、呆れたような、厳しい口調に応じようと、首を前方にがくりと倒す。なんとか肯定の意と取ってもらえたろうか。頭上からわざとらしい溜息が聞こえた。
数日前、カッショウガシラの死骸を丸ごと一匹サンプルとして採集した。そのチームに同行したのを良いことに、私は死骸から抽出した毒を小さな容器に一瓶だけ隠し持っていた。
なにも初めから他人に使おうなどとは思っていない。これは私が、個人的にちょっと試験をするだけだ。
前線基地では、祈手個人の研究も成果が出れば報酬を受け取れる。実際、かつて何人もが実績を挙げていた。ただし、ほとんどが対価を宛てにしていない内容だったのは、やはり彼らが忠実な黎明卿の祈手だった為だろう。
私のこれは、彼らの熱意ある研究と比べたらささやかなものに違いない。それどころか、あまりに個人的すぎるものだ。興味本位で始めたはいいが、すでに引っ込みがつかないまま、私の「試験」はエスカレートしていっている。
私はアビスに不向きだ。
なんとか黒笛となったはいいものの、これは元々同じ隊だった探窟家たちのおこぼれにあずかった地位だった。
私の実力は不透明だ。いつも運だけで生き残っている。私がくっついていた探窟隊も今では壊滅してしまったし、生き残ってそのまま祈手になったのも、死にたくなかったからだ。
私はいつもこの深層に怯えている。此処に到達した黒笛たちは皆、冒険の中で何かを喪失し、諦めていたのに、私はなまじ鍛えられないままこんなところまで辿り着いてしまっただけに、いつも不安だった。
だから「こういうこと」に手を出してしまったのだろうか。
グェイラは、診察台に座らせた私に言い聞かせる。
「薄めてるっつったって、元は内臓溶けるような代物だぞ。お前早死にするよ」
「……」
「舌まで痺れてて喋れないか。やれやれだよまったく」
口ではそう言っているが、彼の処置自体は至って冷静だった。もともと医療には通じているらしいし、暴れる子供相手にもてきぱきとしているところを見るに、ここに大人しく座っている私の相手などは半分寝ながらでもできるのではないだろうか。
「解毒剤打っとくけど、お前たぶん変な混ぜ物してるだろ。アレルギーとか副作用出ても知らないからな」
どうせ相手が喋れないと知って、可否を問わずに注射針が刺される。私にとってはその針の感覚すらぼやけている。
「旦那もこのこと知ってるだろうに。マジで研究の一環だと思ってんのかな」
「……」
グェイラは、眼球だけは動かせる私がおおげさに視線を逸らすのも、まったく意に介さない様子で、小言を喋り続ける。
対面して処置をしているはずなのに、私は彼が他人事を言っているような距離感を感じずにはいられなかった。
今まさに針が刺さっている私の腕には、ほかにも無数の跡がある。そのいずれも、原生生物から採集した毒の加工品を打ち込んだときの注射跡だ。……名目上は試験と称しているが、実際は自分の快楽のための行為であるのは誰から見ても明白だろう。
ただ、このグェイラを含め、前線基地に私を咎める人間は誰も居ない。誰も彼も、きっと本心では私の心配などしていないだろう。それに対して「淡白だ」とか「薄情だ」と言うようなことは、間違っても無いけれど。
暫く経って解毒剤が効いてきたらしい。まだ完全ではないにしろ、四肢はだいたい動くようだ。
私は壁にへばりつくように起立して、ずるずる体を引きずりながら自室へ戻る廊下へ出た。グェイラは呆れたように私の脇を掴んで、倒れそうになるのを引っ張り上げた。
「ちょっと。怪我増やすなよ」
「……もういいから」
「ナマエは他人をもっと使ったほうがいいんじゃない」
「私は、わざわざ手間取らせたくない……」
「ぶっ倒れてるの俺なんかに見つかったくせに」
私は反論に詰まった。他人に興味がないのはグェイラのほうだと私は知っている。なのに平気でそんなことを言うなんて。
私は祈手の中では協調性が低いし、性格もわがままな方なのだろうが、これではますます前線基地が居心地悪くなる。
私は片腕を引っ張り上げられたまま、彼に連れられて歩く。グェイラは力があるから、私の体重などは装甲込みでも余裕で持ち上げている。ほとんど浮いているくらいだ。
それに対して正直に「助かった」と言うのは、憚られた。
「……私は此処に向いてないと思う」
「あー、そういう話するんだ」
「黎明卿のことは嫌いじゃない。でも、私は多分、地上の方が性に合ってた……」
「ナマエはアビスがつまんないから『こういうこと』してんの?」
グェイラは私の、注射跡が隠れている探窟服の肘の生地をつまんだ。つまらない、とは違う。けれど此処に楽しみや安らぎを見出したことは、確かに無い。
私は無言を貫いた。きっとそれが肯定の意味だと、充分に伝わってしまっただろう。
「毒で脳みそちょっとずつ溶けてるんだし、まあ、いつか平気になるだろ」
「そんな言い方……」
「ゴメンゴメン。お前はアビスに居てもスレないなあ。……そういうとこが良いのかねえ」
「誰が」
「俺が」
てっきり「黎明卿が」と言うのかと思っていたから、私は拍子抜けした。途端に、グェイラに腕を持ち上げられているこの状況を「近い」と感じた。
「俺けっこうお前のことは好きだよ」
「嘘だあ……」
「他のやつだったら薬キメて倒れててもほっとくね」
とにかくさ、とグェイラはこちらを見ずに言う。
「別に要らないなら助けないから。助けて欲しいって思ってんのに、平気なふりするな」
ずっと誰かに言って欲しかった。
けれど、隣の男は祈手で、それ以前に私も彼も、自我を半分失っているような存在になってしまっている。なのにまだ、残った半分の私が、グェイラの本当かどうかも分からない台詞に翻弄されている。
どうしてそんなことが言えるの、祈手なのに。私はそう言いたくなるのを呑み込んだ。かわりに、私のなるべく素直な部分だけを集めた。
もう散り散りになって、消えてしまっていたと思っていた、なるべくの本心と、なるべく温度を消した強がりが口から出た。
「……今はいい。本当に助けて欲しくなったら、言うから」
「はいはい。待ってるよ」