自分の肌に生白さを覚えたのは、些かショックだった。
アビスの深層は、力場によって太陽光が遮られている。特に深界五層は荒涼としていて、霜と水に支配された土地では、祭壇から立ち昇る光の柱だけが頼りだった。
私は黎明卿の探窟隊においては末席に過ぎないが、それでも黒笛としての自負を持っていた。だから、数ヶ月ぶりの休暇で帰った地上の家屋で、すっかり日焼けが無くなり、度を超えて青白くなった顔を鏡で見たときには、思わず自失してしまった。
穴を登るときに受けた上昇負荷には、失血を伴うものも多かった。何度地上と行き来しようが、こればかりは避けることができない。内臓、血液、肉の少しずつを消耗しながら、やっとオースのふもとにたどり着いた時には朦朧としていた。
ただ、この血色の悪さはただ血を失っただけではない。日を浴びる大地と私が切り離され、地層の奥へ誘われた果てに受けた烙印にも思えた。
目や口の粘膜ばかりが際立って赤く見える。心なしか髪の色も以前より透き通っている。幽霊じみた白さだった。
「よお、なんだか随分浮世離れしたなあ」
「ハボルグさん。久しぶり」
私と同じく黒笛の男は、以前見た頃と同じような恰幅のよさだった。私が店へ顔を出すなり、彼は驚きと共にそう言い放ってみせた。私は少し困った顔をしたかもしれなかったが、彼はさして気にする素振りもなく、大きな手を招いて客を迎え入れた。
「今回の探窟はどうだった?五層にも用があったんだろ?」
「うん。依頼主があれで、内容は話せないけどね。ずっと五層の入り口あたりをうろついてたよ」
「じゃあ、黎明卿には会ってないのか」
私は、カウンターの奥の棚を吟味しているふりをした。
まさかこの人は、私がその黎明卿の直属の部下とは思っていない。自分の後輩の黒笛で、あまり他の探窟家とつるむタイプではないのだと認知していることだろう。更にもしかすると、真面目で正義感ある若者とも思っているかもしれない。だとしたらとても気まずいことだ。
黎明卿の行なっている数々の実験や、環境へ与えている影響などは、地上の人々の倫理観に照らせば悪や非道と呼ばれる類いだろう。アビスの深淵と試練を知る探窟家ならば、一概に断じることも無いのかもしれない。
ただし、私は自分の真の身元を地上で明かすつもりはない。何よりも、黎明卿の為だ。
「ううーん、あの人は怖いから、できることならあまり会いたくない」
「そうかあ。まあ仕方ないな。俺としてはチャンスがあるなら接触したいもんだが」
「さすが白笛マニアですね」
変わらぬ調子のハボルグに苦笑する。ふと、豪快に振る舞っていたハボルグが神妙な顔をした。
「お前。前までは俺に敬語なんて使わなかったじゃねえか」
その聡さもまた、変わらなかった。月笛、黒笛となるとくぐってきた死戦の数が察しの良さに直結してくる。だから私はこのハボルグという人が怖かった。大らかで面倒見の良い先輩探窟家は、私が五層でどんな姿をしているか知ったらきっと何か行動を起こす。それは望ましくない。
「私も年を取ったのだから、ちょっとは落ち着いた喋り方をしなくちゃならないでしょう」
「今更俺に改まるなよ。驚いちまった。その顔色もそうだが、あんまり振る舞いが変わると危ねえぞ。深層なんて、ただでさえ自我も持ってかれそうになるんだから」
彼の言うことは尤もなものだった。現に私はある種の挫折を経て祈手となることに甘んじた。ハボルグの心配する自我の喪失など、とっくに経てしまっている。
黎明卿の秘められた特級遺物ゾアホリックに触れ、私は変質してしまった。普段は奥に眠っているものの、ナマエとしての自我は既に私の手を離れ、黎明卿が望めば彼の精神が私の身体を支配する。
ハボルグは白笛に憧れ、彼らと接することを楽しみにしているような探窟家だが、この状況も本質的には「そう」と言える。私は黎明卿の写し身だ。ハボルグと会話をしている私は黎明卿本人でもある。きっと深層では、彼が私の視界を把握しているし、鏡を見て唖然とする白い顔の探窟家をも目撃していることだろう。
頑なに表情を動かさない私に、やっとハボルグの方が折れた。溜息混じりにカウンターに肘をつき、私に視線を合わせた。咄嗟に目を逸らしてしまいそうになる。前線基地では仮面に隠れているせいで視線に気を使う必要はなかったが、なんとか持ち堪えたのはやはり、黎明卿でない人物に踏み入られたくない一心だった。
「お前は良い探窟家だ」
「……そんな手放しに褒めてもらったの、赤笛の頃以来じゃないかな」
「ああ。あの頃から、お前は才能があった。黒笛になるのもすこぶる早かった。苦労もたくさんした。そういう奴は誘われちまう」
「……黎明卿に?」
「そうだな。黎明卿から声が掛からなくても、いずれアビス自体に魅入られちまう。まあ、穴の中で死ぬってのは俺たちにとっては本望だが、それでもやっぱり、深く潜って血の気のねえ顔になった奴を見るとなあ」
俺たちは地上の生物なんだと噛み締めちまう。ハボルグは言った。まさに私がこの地上へ出てまず感じた、魂の底からの実感だった。私は地上で生まれたのだという確信。本来ここで生きていくはずの生命だったのだという、後悔とも望郷ともつかない感情。
きっと、身にも精神にまとわりつくそれらを拭って、私はまた霜と水が支配する深層へと潜っていくのだけれど。この人への申し訳なさを抱えて、自分の真っ白くなった肌を仮面で隠して、なにもかもを有耶無耶にしていくのだけれど。
「ナマエ。暫くぶりの地上は楽しめましたか」
穏やかで甘い響きだった。深界五層の冷気と、前線基地の薄暗い狭さはよっぽど心地が良かった。黎明卿に帰還を報告し、またここまで潜ってきたことを労われ、私はそれまで揺れていた自分の中の探窟家という存在が、緩やかに融解していくのを感じた。
地上は私に探窟家の役割と人間の肉体を強いる。日の光を浴び、それに照らし出されると、嫌でも自分の形や色を理解せざるを得ない。変質した自身に惧れや不安を芽生えさせる。
けれどアビスの奥は。此処へ住まう彼は。私の在り方のなにもかもを解きほぐす。空へ殻へと融解させる。それはとても心地の良いことだった。自身を顧みる暇など与えず、ただひたすらに憧れだけを投影してゆく。
逃避なのかもしれない。
けれど逃避の先に黎明があるのなら、私はそちらへ向かうだろう。顔の形も、皮下を辿る血の色も、性別も機能も何もかもを闇の中に霧散させ、私は彼へと成って行く。私はそれが良い。
「……地上はすこし明るすぎて。色々見えてしまって。私にはもう遠い土地になっていました」
「おや。あなたには、此方の方が息をしやすいのかもしれませんね」
「ええ。そうらしいです」
「生まれた土地から魂が遠ざかることは、悪いことではありません。むしろあなたの素直さを、私は好ましいと思いますよ」
普段あえて言わないような私の素直な吐露を、彼はやはりとても穏やかな態度のまま受け入れた。黎明卿はゆっくりとした、慈しみさえ含むような語りで私を癒す。まるで何もかもを見通したように慰める。
きっと私には感じられずとも、この人は私を感じている。この人には見えている。
どこか遠く、もう忘れてしまった私の生まれの地では、神は何時も我々を見ているのだと云われていた。かつての母にそう聞いた。
だとしたらば、私にとっての信仰は、その神にも、大穴にも向かわない。
ただひとり、私が祈りを捧げるのはあなただけだ。