※男性主人公
※名前変換には洋名(last name)を使用
「今回の『私』は、いかがですか。ミョウジ」
寝台から身を起こす黎明卿。隣の寝台にはもうひとつの身体が横たわっている。血塗れだ。今我々がこの前線基地に有している、戦闘向きの祈手としては最後の肉体。その指先から肩までにはいくつも裂傷が走っている。
遺物「月に触れる」を使いこなすため、黎明卿は無数の器を使い潰しているが、とうとう今回も習得には至らなかった。彼が仮面を被り直し、無邪気ささえ含むような声色で訊ねるのに、俺は半分呆れていた。
測定した血圧や脈拍の数値を紙に書き起こす間、黎明卿は身体のあちこちを動かして感覚を確かめている。たまに「ふむ」とか「おや」とか言いながら首を傾げているところを見ると、やはり互換性が高くないらしい。
俺は溜息混じりに、寝台から立ち上がった黎明卿に忠告した。
「今回の肉体は痩せ気味ですし、視力もあまり良くない。背は高いですが、いつもあなたが使っているような体格とは違いますから、転ばないよう気をつけてください」
「あまり気乗りしていませんね」
「勿論です。戦闘向きの祈手を使い切ってしまったといっても、もっとマシなのも居たはずです。なんなら俺でも良かったのに。どうしてわざわざその個体を選んだのです?」
「私は『彼』を気に入っていましたから」
今回黎明卿が器とした祈手は、我々の中でも一番年長にあたる人物だった。黎明卿はなんでもないふうに言ってみせたが、俺には彼が比較的高齢の祈手に温情を込めてそうしているのが透けて見えた。そこに俺が一種の苛立ちを覚えるのは、あまり良くない傾向だ。
我々は等しくこの人の駒であるはずで、激しい思想や感情の起伏は必要がない。あまり突出したものがあるのは、同期の妨げとなる。俺は深く呼吸して、無駄に動こうともたつく舌を宥めようとする。
黎明卿は、そんな俺の気を知ってか知らずか、以前より華奢な、骨張った手を俺の肩に置いた。
「あなたの肉体には、まだまだ仕事をしてもらわなければなりません。焦ってはいけませんよ、ミョウジ」
その手の軽さや、脆さすら感じる皺の刻まれた皮膚に『彼』を感じてしまい、思わず顔を背けてしまう。黎明卿は動揺しない。そのまま俺の肩に手を置いている。低い体温が衣服越しにでもわかった。
「そう心配せずとも、すぐに新たな祈手が調達されます。数日もあれば五層まで届けられるでしょう」
「……そうですね。逆にその身体でいる内くらいは、あなたは呑気にしていることです。最近はファーカレスの調整にばかり尽力されていましたから」
「ええ。たまには、プルシュカや子供達と遊ぶのもよいでしょう」
この人の声色はいつも変わらない。変わらず、柔和で親切だ。娘にも被験体にも我々祈手にも、そして彼を阻む外敵にすら同じ態度を崩さない。いつだってこうして、ごく嬉しそうに声をはにかませている。
だからこの人の『肉体』は幸せだ。黎明卿、新しきボンドルドの文字通りの礎となれるのだから。この人の手足として働き、心臓を動かす。夜明けを迎えるための装置として血を運ぶ。
俺は器に成ることに憧れている。だけれどこの人は、なにかと理由をつけて俺と同期するのを避けている。それがとてももどかしかった。
その肉体の終わりはすぐに訪れた。既に新たな祈手は補充されているので問題はないにしろ、『彼』の肉体には我々が関知しなかった不都合が多かった。『彼』自身が無意識に無理を押して活動していたのだろう。おそらくは黎明卿の器とならずとも、ここが『彼』の終点だった。
黎明卿がそれを見越していたのは明らかだった。みるみる弱り、呼吸が薄くなる黎明卿を見るのは、ファーカレスの調整中からも常だったくせに、やけに真実味のある死が迫っているように思えた。俺は、夢が覚めてしまうのではないかとすら思える冷たさと静けさへの恐れを、仮面の下に必死に隠した。
そうして普段と変わらないような声を保ちながら、寝台に横たわる黎明卿の腕を取った。
「もうあまり身体を動かさないでください。脈が薄くなっています」
「……痛みや苦しみはほとんど感じません。不意に力が抜けるのは良くない傾向でしたが、なるほど『彼』はとても頑張っていました」
「……。次の器は隣に用意してあります。いつでもどうぞ」
「いえ。完全に『彼』が途絶えるのを待ちましょう」
俺にはその穏やかさが恐い。そして悔しくもあった。徐々に鼓動が途切れてゆき、やがて呼吸が止まっても、しばらく黎明卿は動かなかった。
死を感じているのだろうか。だとしたら、ここまで黎明卿に慈しまれた『彼』もまた、それを感じただろうか。この場でそれを知り得ないのは俺だけだ。『彼』と黎明卿のふたりだけの時間が今ここに静止しているのが、果てしなく切なかった。
俺にも同じような静寂は訪れるだろうか。何故だか、きっとそのような瞬間は訪れないと思えた。眠らされていたもう一つの肉体がゆっくりと動き出すまで、俺は死んでしまいそうな気持ちで待ち続けた。
新たな器に同期した黎明卿は、死亡した『彼』の頭から仮面を回収すると、いつものようにあちらこちらを動かして具合を確認した。首、手足、腰、指先。そしてしばらくすると俺の方へ向き直り、「ただいま戻りました」となんとも珍しい挨拶をした。
俺は、すこし面食らいながらも、手元の数値を読み上げた。
「ごく健康体です。身長や体重も調整させましたから、以前の肉体と近いはずです。いかがですか?」
「ええ。慣れた感覚です」
「それはよかった」
「今回の私の目は何色ですか?」
「……知らなくても支障のないことですよ」
「意地悪を言わないで。ぜひ教えてください」
黎明卿がなぜそんなことを問うのか分からない。『彼』との同期が終わるまでのあの静寂の中、黎明卿がどれだけの思いを巡らせたか分からない。俺は祈手である以上、黎明卿には軽い悪態をつくことはあっても逆らわない。「青色ですよ」と小さく呟いた。
黎明卿は満足したように「そうですか」と頷いた。そして続けてこう言った。「先程終わってしまった彼の瞳の色を、気にしたことが無かったと思ったので」
俺は呆然とした。立ち尽くした。黎明卿が部屋を去っても、そこに立ち尽くしていた。
娘や被験者たちの名前、夢、好きな色、好きな香り、なにもかもを尊重している人が。ただひとり死にゆく祈手の、仮面に閉ざされた瞳の色を知らぬことを思うなんて。
あの人には敵わないと思った。『彼』にも敵いやしない。俺はあの人に消耗されることを望むのに、『彼』のように穏やかで慈愛に満ちた最期を遂げる夢を見てしまいそうだった。たかが祈手だ。たかがあの人の歯車だ。だのに、あの緩慢で静かな死に触れてしまった。知ってしまった。
黎明卿、あなたはこの傲慢な憧れをも見通して、俺の死際にも瞳の色を気にしてくれますか。それとも何もかもを見なかった振りをして、粛々と次の器へ進むのでしょうか。
俺にはどうしても、あなたに満たされて終わる自分を思い描くことはできない。意図を持って突き放されている気がしてならない。それでも俺のこの自傷的な憧れが、あなたを助けることがあるならば。
悲しみと、それを上回る愛を以て遂げてみせます。きっと。