「ジャーファル様、しばらくお暇を頂きたいのですが」
「この忙しいときにどういった用事で休みを?」
執務室。ひっきりなしに舞い込む仕事の山に追われ、徹夜も何日目かという早朝。
文官の一人であるナマエが珍しい頼みを持ってきた。普段私の手に負えない仕事をひとえにこなすこの女性は、私生活の片鱗すらをも見せたことはなく、こうした申し出もほとんど聞いたことはなかった。
上官としてはぜひとも快く休みを与えてみせたいところだったが、今彼女に抜けられると、きっと塞がらない穴が空くだろう。私は頭を抱えたくなるのを堪えながら、なかば怒りさえ含むような声色で理由を尋ねた。思えば、それもかなり良くはなかった。
ナマエは普段と変わらぬしれっとした態度で、大きな爆弾を投げてよこした。
「ええ、私、結婚することになりましたので」
聞くなり、私はしばし、閉口した。この場合の結婚とは、おそらく彼女の親類が、というわけでもなさそうだ。順当に考えれば、ナマエ自身が、婚姻のために数日の休日を求めているとするのがよいだろう。
だが、私は長らくこの女性文官と仕事をしてきたが、彼女には婚約者はおろか、浮いた噂もまったく聞いたことがなく、むしろ私はこの女性のことをとても気に入っており………………。
頭をぶん殴られたような感覚がして、机に肘をついた。あまりに大きな動揺があることに、自分自身ショックを受けた。
私はこの部下の晴れの門出を素直に祝うことができそうになかった。それほど、内心で彼女に寄せていた名もつけられないほど淡かった期待は、ここまで奥底に浸透していたのだ。
「ずいぶん、急に聞こえますが……」
「私自身驚いています」
「……それは、相手方からの申し出で?」
「いえ、私の父からです。いい加減所帯に収まるべきだと言われてしまって。いつのまにか相手も見つけていたらしく、そのまま」
「あなたはそれで良いのですか?」
「女性の身で文官として働いていること自体、奇跡のようなものです。これまでに両親には心配をかけましたし、親孝行として受け入れています」
「お父上はお相手自体にはなにか拘りが?」
「商家の方で、私の家は名家でもありませんから、かなり交渉したとだけ……」
「……そのお相手、私では務まりませんか?」
焦った私が口走ったのは、なんとも突飛なことだった。口に出してからようやく、頭の隅で混乱する意思を自覚したくらい、反射的だった。
私は焦った。そして私以上に、これまで平然と結婚話を打ち明けたナマエこそが、焦っている風に見えた。
「え、あの、ジャーファル様?」
狼狽えて声も震える彼女に、私はままよと決心をつけて一歩踏み込んだ。
一世一代の文言がこんな場面で飛び出すとは、先刻前の私ですら想像もしていない。しかし、一度口走ったこと、彼女の上官でもあり、年上でもあり、なによりは個人として冗談では済まされない。
私は大きく息を吸い込み、あれこれと言葉を探しながら、辿々しくも口を開いた。
「私は出身こそ高貴ではありませんが、こうして一国の政務官として、八人将の一人として王に仕える身です。この肩書きで足りぬというなら、もう少し手柄を立てることも考えます」
「あの、……?」
「……困らせてしまいましたか?」
「え??」
そうだ、大事なことを伝えていないのに、こんな交渉のようなやり口は混乱させるばかりである。私は頭が熱くなるのを感じながら、言い慣れない言葉に語尾を小さくしつつも、言葉を紡ぐ。
「その、こんな時に言い出すのはおかしいのですが。私はあなたが好きなのです。ですから、あなたに相手の拘りが無いと言うなら、どうか私と結ばれてほしい」
ナマエはいよいよ涙目になっている。普段はほとんど無表情で、笑うこともあまりない。それ以上に、怒ったり泣いたりなどは見たことがなく、私は彼女にこんな顔をさせている自分が許されざる存在なのではないかとすら思い始めた。
しかし、目に涙をたたえつつも、彼女が何かいいたげにするので、静かに耳を傾けた。
「私は、あなたのような賢く誠実な方に、尽くしきる度量もない女と自負しています。結婚なんて大それたこと……」
「けして、生半にこう言っているわけではありません。その、確かに唐突でしたし、あなたの結婚を聞いて焦った結果なのですが。それでも、あなた以外は考えられないのです」
「……ジャーファル様」
「……はい」
「あなたは遠い人だと、望みのない人だと思っていました。結婚の話を父から出された時、ようやく諦められると思いました。未練なく、あなたのことをただの上官と割り切れると……」
「え?」
「……私も、ジャーファル様のことを、ずっとお慕いしていたんですよ」
父にどうやって説明しましょうか。そう言って、彼女はあたたかな血色を頬に宿した。私は私で、王にどうやって説明しようかと思案してみる。ああもう、いろいろなことが脳を渦巻いて収集がつかない。そんなことよりも、素直にこの時間を喜びたい。
ああ、ちらと横目に入った、中断された仕事の山すら、今は憂いたくはないのに!